「鈴木秀樹」というごくありふれた名前のプロレスラーがいる。しかし、彼が歩んできた道は誰にも真似ができない。

アントニオ猪木が設立した4つ目の団体IGFで活躍し、大日本プロレスで名を上げた後、世界最大のプロレス団体WWEにも所属、同団体の養成機関「パフォーマンスセンター」のコーチも務める。デビューしてから日本のプロレス団体に所属した経験がないフリーランスレスラーとして戦ってきた。



 キャラクターも独特だ。191センチ115キロという恵まれた体格、正確無比なグラウンドテクニックを持つ一方で、マイクを握れば炎上しそうな発言をタッグパートナーにもしてしまう。



 とらえどころがない彼は一体どんな人間なのか? どんな思いでレスラーをしているのか? 多くの疑問がわいた筆者は鈴木秀樹に直撃した。





◾️「やりたいことが何もない」高校生が郵便局員になった理由



 北海道北広島市に生まれた鈴木秀樹はなかなか自己主張ができない子どもだった。身体が大きかった父親に怒られるのが怖かったからだ。「野球をしたい」「サッカーをしたい」といったことも言えなかった。



「何事に対してもどうせこれは、と冷めた目で見ている子どもでした。それはプロレスラーになった今もあまり変わってないと思います」



 プロレスラーは、子どもの頃からプロレスファンで「いつかは自分も!」という気持ちで少年時代を過ごしてた者がほとんどだ。プロレス中継を食い入るように見て、専門誌を買い、会場で試合を観戦して、夢を叶える思いを強くしていく。



 しかし、鈴木秀樹はそう真っ直ぐではない。

彼は少年時代にプロレスは好きだったものの、レスラーになりたいと思ったことはないという。どこか俯瞰して見ていた。



 「選択肢ってどうして右か左か二択しかないような状況になるんだろう。選択肢って他にもあるんじゃないかなとは思っていましたね。どっちもイヤも選択肢ですし、反対にどっちもいいもあるなんてことを考えてました」



 そんな少年時代を過ごしていた鈴木に、高校卒業後の進路を決める時期が訪れる。進路選択は、学校という世界から飛び出し、一人の大人として生きるための決断をするのだが、そこでも彼は自分らしい選び方をした。選んだのは公務員だった。



 「僕、高校3年の2月まで、本当に進路のこと何にも考えてなかったんです。周りは高校卒業したらどうしようとか話していたけど、僕は何も考えてなかった。ウソだと言われますけど本当なんですよ。やりたいことをやろうと思った時期もありましたけど、身体にハンデもあって。親にもやりたいことを伝えた時に『それは仕事にならない』みたいな感じで言われたんです。

夢を持っちゃいけないという雰囲気だったんですよ。そういうこともあって、全然自分の人生にやる気がなかったんです。それで先生に呼ばれて『お前は専門学校行って公務員になれ。そうすれば生活が安定するから』と言われて専門学校へ行ったんです」



 高校を卒業した鈴木は、先生に言われるがまま公務員試験を突破すべく、専門学校へ進学した。そこで彼を待っていたのは勉強漬けの日々と厳しい校則であった。遅刻をしたら反省文を書かされ、毎日のように宿題を出された。目の前に出てくる課題をこなすだけで精一杯だった。



 「通っていた専門学校では国家3種、郵政外務、防衛省、そして裁判所。この4つを必ず受験させられたんです。後は、自分の好きな自治体か警察。でも、僕は公務員になる気もなかったから結構適当に過ごしていたんです。マークシートの試験も(解答用紙を)遠目から見ると、人の顔に見えるよう塗りつぶしていたぐらい。

それが、郵政外務の筆記試験にたまたま通ってしまった。2次試験の作文も受かる気ないから『金の無駄だからとっとと民営化しろ』なんて書いて、希望勤務地も適当に東京と書きました。東京を希望する理由は面接でも聞かれたのですが、北海道じゃ観られないプロレスも東京なら後楽園ホールとか両国国技館とかでいっぱい観られるから、って。それだけです!って言い切ってました(笑)」



 こんなひどい態度で試験に臨んで受かるはずがない…しかし鈴木は何かを持っていたのか。見事、当時の郵政省に合格を果たし、かくして希望勤務地である東京で郵便局員として勤務することになった。



プロレスラー鈴木秀樹「やればいいじゃん」 無気力だった少年か...の画像はこちら >>



◾️プロレスデビューはすべてのタイミングがそろっていた



 郵便局員としての生活をスタートさせた鈴木秀樹は。ここから真面目に仕事に取り組み、順調にキャリアアップをしていったと書きたいが…



 「とにかくやる気がなかった。郵便物を配るためにバイクの免許がいるから試験を受けたんですけど、3回学科に落ちましたね。最終的には何とか受かりましたけど」



 そこに一つ下のアルバイトが声をかけてきた。伝説のプロレスラーであるビル・ロビンソンが阿佐ヶ谷にジムを開いたので一緒に通ってほしいと言ってきた。190センチを超える体格が頼もしかったのだろう。



 「当時は総合格闘技がブームで、彼もプロレスとか総合格闘技に出たくて京都から上京して、ロビンソンのジムに通っていたんです。

でも身体が大きいから練習相手がいなかった。練習相手になってほしいと頼まれました」



 プロレスは好きだったが、しかし鈴木は誘いをずっと断っていたという。



 「右目の視力は生まれつき0.01だし、色覚異常もあったので、運動もほとんどしたことなかったんです。体力もないし、運動神経がいいとも思えなかった。そもそもすぐに諦めてしまう性格だったので、実際に自分がプロレスや格闘技をやるという想像ができませんでした」



 それでも何度も誘ってくる後輩の熱意に負けて、ロビンソンのジムに通うようになった。そこで少しずつ運命の歯車が動き出してくる。



 「ロビンソンの名前は知ってましたけど、直接見たことはありませんでした。実際にテクニックはすごかったです。そしてそれ以上に、レスリングのことを質問すると全部即答で返ってくることに驚きました。普通、いくら自分の得意分野でも聞かれたら少しは「うーん」と考えることがあるじゃないですか。でもロビンソンはその間が全くなかったです。



 例えば、スパーリングをして失敗するじゃないですか。

アドバイスを求めると、『次はこうしてみろ』とすぐに言ってくれる。それもダメだったら『これはどうだ』とまた違う視点でアドバイスをしてくれる。そういったやり取りを繰り返していくうちに出来るようになっているんです。この人は、自分の中にちゃんとレスリングが入っているんだなと。とにかく衝撃的でした」



 ロビンソンの指導でメキメキとレスリング技術を向上させた鈴木は、徐々にジム内で頭角をあらわすようになる。当時、ロビンソンのジムには彼を日本に呼び寄せた宮戸優光(※1)が、元プロレスラーを呼んでトークイベントを開催しており、多くの元プロレスラーが顔を出していた。



 そんな折、新日本プロレスでコーチをしていた山本小鉄(故人)がジムへやってくる。当時の鈴木はスクワットやウェイトトレーニングもこなし、身体ができてきていた。体重も100kgの大台に近くなっていた。見込みがあると思われたのだろう。



 「山本(小鉄)さんに、控室でご挨拶をしたら『彼(鈴木)はプロレスやらないの?』なんて言われたんです。うっすらとやってみたいなとは思っていたけど、あの時でもう24歳とか25歳。

デビューするにも遅いし、やれるとは思ってなかったんです。でもその後に小林邦昭(※2)さんが来て、小林さんからも『やってみない?』と」



 山本小鉄や小林邦昭との出会いから、鈴木の環境が大きく変化をしていく。



 「郵便局から異動で地方に行けって言われたんです。課長から『ある部署が若い人を欲しがっている。だからそこに行ってくれないか』と言われたんですね。僕は『じゃあ給料いくら上がりますか?』と聞いたら、役職手当が1万円から1万5000円付くって話だったんです。だから『それじゃあ行けない』と反発して、じゃあ辞めようって宮戸さんに連絡しました」



 郵便局員を辞める決心をした鈴木は、宮戸からIGF(※3)両国大会に誘われて観戦することになる。大会当日、鈴木は宮戸から思わぬ話をされた。



 「セコンドを頼まれたんですよ。やったことないからできるわけないのに。でも、やり方教えるから動ける格好を持って来いって言われて、Tシャツとハーフパンツを持っていってセコンド業を何とかこなしたんです。その2~3日くらい後に『デビューしてみるか』と言われたんですね。『自分でもできますか?』『できるよ。大丈夫だよ』『じゃあやってみます』みたいな感じでデビューが決まったんです」



 全ては偶然かもしれない。郵便局の仕事、ビル・ロビンソンとの出会い、山本小鉄や小林邦昭からの誘い、そしてアントニオ猪木がIGFを旗揚げしたこと、宮戸優光の仕掛け、すべてのタイミングがバッチリと嚙み合ったからこそ鈴木秀樹のプロレスラー人生は始まった。





※1・宮戸優光:前田日明が設立した第一次UWFでプロレスラーとしてデビュー。その後は高田延彦と行動を共にするもUWFインターを退団。引退後は「U.W.F.スネークピットジャパン(現:C.A.C.C.スネークピットジャパン)」を設立。代表に就任してビル・ロビンソンをコーチに招聘した。





※2・小林邦昭:「虎ハンター」という異名で初代タイガーマスクのライバルとして活躍。全日本プロレスでも二代目タイガーマスクと抗争を繰り広げた。その後は新日本プロレスに復帰。引退した現在は新日本プロレス道場の管理人を務めている。





※3・IGF:アントニオ猪木が設立したプロレスと総合格闘技の団体。外食産業大手のジー・コミュニケーションの支援を得て、小川直也や藤田和之といった猪木の弟子以外にもミルコ・クロコップ、ピーター・アーツ、レイ・セフォーといったK1戦士も参戦したこともある。



プロレスラー鈴木秀樹「やればいいじゃん」 無気力だった少年から“マット界一面倒くさいレスラー”になった男からの檄文【篁五郎】
写真:鈴木秀樹選手提供



◾️フリーランスレスラーとして生き抜くために考えていること



 2008年にプロレスラーとしてデビューした鈴木は、デビュー当初から団体に所属をしていないフリーランスのレスラーで、日本のプロレス界では珍しい存在だ。日本のプロレスラーは、厳しいテストをクリアして団体へ入門をし、何ヶ月もテスト生としてハードな練習を経てデビューする。メジャーと呼ばれる新日本プロレス、全日本プロレス、プロレスリング・ノアはもちろん、インディと呼ばれる団体も変わらない。



 しかし鈴木は入門テストも受けていないし、団体にも所属した経験がない。メキシコやアメリカでデビューしたレスラーならまだしも、日本でレスラーになった鈴木の経歴は唯一無二と言っていい。ずっとフリーランスだった鈴木が生き残っていくためにどんなことを考えているのか聞いてみた。



 「これは今でも変わらないんですけど、自分がやれることをまず見つめ直しました。自分にしかできないことは何かと。当初はあれもこれも、と思いましたけど、当時の僕は無名でしたしそこまでの力もなかったですから。最初に頼ったのはビル・ロビンソンですね。後は、IGFの道場でコーチをしていたケンドー・カシン(※4)と藤田和之さん。その3人に教わったことを突き詰めていったんです。



 人の代わりは絶対にいるんです。それでも『この人にしかできない』と思われることをやろうと。後は、お金を払ってくれた人が『こいつをリングにあげて良かった』と思わせるような仕事をすることです。そういう考えになるまで1年くらいかかりましたね」



 プロレスラーになってから、転機となったのは、2015年大日本プロレスで行われた船木誠勝(※5)との試合だったという。この試合で鈴木はファンに認められる存在となった。ここでフリーランスとして生きていくための学びを得たという。



 「ファンに認められるような存在になって、そんな自分を活かして使ってくれたらいいなと思うようになりました。例えば、大日本プロレスでもノアでもいいんですけど、団体の人にどうやったら『鈴木秀樹を使えば何か面白いことがあるかな』とか、『いいことあるかな』と思わせられるか。そう普段から考えるようになりましたね」



 船木との試合後もフリーランスレスラーとして活躍を続け、大日本プロレス、ZERO1、IGFを中心に多くの団体のリングに上がっていく。レギュラー参戦していた大日本プロレスでは、団体のエースである関本大介とBJW認定世界ストロングヘビー級王座を争い、遂にベルトを手に入れる。



 その後も、現在は女子プロレス界のトップレスラーになったジュリアの新人時代にグラウンドテクニックを指導したり、女子プロレス団体・アイスリボンにも参戦したりしてプロレス界に話題を提供していった。その活躍が海の向こうにも届いたのか、意外な団体からオファーがきた。



 世界最大のプロレス団体WWEである。鈴木は、そこで初めて団体に所属をすることになった。





※4・ケンドー・カシン:新日本プロレスと全日本プロレスで活躍したレスラー。総合格闘技でも本名の石澤常光として活動し、グレイシー一族の一人であるハイアン・グレイシーと対戦した経験もある。





※5・船木誠勝:新日本プロレス、第二次UWFで活躍したプロレスラー。理想の格闘技を求めて「パンクラス」を設立し、ヒクソン・グレイシーと対戦するも敗戦を喫し、一度は引退をする。その後、プロレスラーとして復帰をし、現在もフリーとして活動している。



プロレスラー鈴木秀樹「やればいいじゃん」 無気力だった少年から“マット界一面倒くさいレスラー”になった男からの檄文【篁五郎】
写真:鈴木秀樹選手提供



◾️「教える楽しさ」とプロレス村以外の見方を知ったWWE時代



 WWEからオファーが来た頃、鈴木は引退も視野に入れていたという。



 「だんだん試合をやることが面白くなくなってきてたんですよ。マンネリみたいな感じで。その時の感情とか感覚を言葉にするの難しいんですけど、簡単に言うと嫌になっちゃったっていう感じですかね」



 周りから見たら充実したレスラー人生に見えるが、当人にとってはどこか居心地の悪さを感じていたのかもしれない。見方を変えれば、オファーが来た試合をするだけの日々はつまらないだろう。そんな状態でやってきたWWEからのオファーをどうして受けたのだろうか。



 「(WWEから)コーチと選手両方でと言われたんです。選手だけなら断っていたかもしれません。教えるのも好きだったんで『コーチがやれればいいや』と思って引き受けたんです」



 渡米してWWEのパフォーマンスセンターでコーチ業をスタート。英語が得意ではない鈴木は言葉だけではなく身体をなるべく使った。関節技を教えるときには実際に技をかける動きを見せたり、スパーリングでかけてみたり。しかしそのやり方を他のコーチが良しとしなかった。止めろと言われることもあったというが、



 「俺ネイティブじゃないからできないんだよって。これでやるしかないんだよって返して無視してやってたんですよ。そしたら他のコーチたちもちょっと僕の真似をやり始めたんです(笑)」



 鈴木は不貞腐れるどころか「この人たちとやり合うの面白い」と感じて、プロレスへの情熱が蘇ってきたそうだ。結果的にはWWEから解雇されてしまい、所属レスラー生活にピリオドを打つことになるが、学びは大きかった。視点が変わった。



 「それまでも団体のスタッフとコミュニケーションは取っていましたけど、より意識するようになりました。WWEは毎週生放送だからスタッフの数もすごいんです。ヘアメイクさんもいますし、美術スタッフ、もちろんカメラマンもたくさんいます。彼らとも話して、会社の人たちの視点に立つことができました」



 またWWEとそこに集まる選手の野心が鈴木にとって大きな刺激になったという。



 「WWEは(アメリカの)4大スポーツと同じポジション、 要するに5番目になろうとしてるわけです。スケールが大きい、小さい関係なく、日本のプロレス界とはものの見方が違います。日本のプロレス団体は『プロレス界のトップ』を目指しているわけで、読売ジャイアンツや横浜マリノスと戦ってませんよね。でもWWEは、極論を言えば、レッスルマニア(※6)がNFLのスーパーボールに勝つことを目指していると思うんです」



 若者はみんな「有名になりたい」「金持ちになりたい」といった野心を抱いて乗り込んでくる。ハングリー精神の塊のような若者と過ごすことで「レスラー引退」の考えが消えていったそうだ。





※6・レッスルマニア:世界最大のプロレス団体WWEが毎年行う同団体最大のイベント。PPVで全世界10億人も視聴する世界トップ規模の興行でもある。2024年はAbemaで独占生配信された。



プロレスラー鈴木秀樹「やればいいじゃん」 無気力だった少年から“マット界一面倒くさいレスラー”になった男からの檄文【篁五郎】
写真:鈴木秀樹選手提供



◾️世間体にとらわらず「やればいいじゃん」



 日本に帰国後、最初に選んだ舞台はプロレスリング・ノアであった。日本のメジャー団体の一つであるノアを選んだのはどうしてなのか理由を聞いてみた。



 「こう言うとプロフェッショナルとして良くないですけど、お客さんとか誰かとかどうこうじゃなくて、自分自身の気持ちが一番でした。インタビューで『試合やるっていいな』みたいなこと言っていたんですけど、それが当時の率直な気持ちです。やっぱりプロレスの試合をするのは、僕にとってはいいことです。自分のやりたいことをやってお金がもらえている。多分一番最初にやりたかったことに立ち戻ってたんじゃないかなと思うんですね」



 その後は全日本プロレス、天龍プロジェクトに参戦しながら、「マット界一面倒くさいレスラー」の名の通り、SNSでも暴れている。多くのプロレスラーは、SNSでは発信のみをしてファンとの交流はほとんどしない。理由はファンからのコメントが多すぎたり、誹謗中傷されたりするからだ。しかし鈴木は、そんなことお構いなしと言わんばかりにSNSでの誹謗中傷コメントにも積極的に絡んでいく。



 プロレスファンの間で話題になったのは、全日本プロレスの諏訪魔に対して「お前はしょっぱい」と絡んでいたことだ。どんな意図があって諏訪魔選手へ絡んでいったのだろう。



 「全日本プロレスに上がりたいから絡んだわけではないです。単純にバカな諏訪魔さんがしょっぱいと思ったから『しょっぱい』と言っているだけです。純粋に(諏訪魔を)バカにしたかった。SNSで絡んでくるファンにも返信しますけど、僕はファンだからとかレスラーだからって括りはありません。単純に人として会話をしている。変なことを言ってくる人がいれば『ご飯食べた?』と返しますし、僕個人の考えもはっきりと言います。それでもわかってもらえない人は猪木さんじゃないけど『お前はそれでいいや』で終わりです」



 そして最後に同年代である氷河期世代へメッセージをお願いした。



 「氷河期世代は色々な可能性を潰されてきた世代だと思うんです。上の世代からはいい時代の話を聞かされてきましたけど、僕らが社会に出たら真逆だったじゃないですか。だから先輩の言う事は通用しなかった。上からやれと言われたことをやっても、違うと返されてしまう。だったら好き勝手やるのが一番いいじゃないですか。



 僕らの次の世代の人たちに、僕らが味わったような嫌な思いはさせたくない。正直、自分たちのところで劇的に全てをガラッと変えるのは難しい。でも、そのキッカケにはなれるんじゃないかな。



 あとは『何者かになろう』ってよく言うじゃないですか。例えば、野球選手とか僕のようなプロレスラーとかサッカー選手とかは、夢に出てくる夢の部分ですよね。でも実際なってみると『やっぱり何者でもない。社会の一部でしかない』とも思いました。



 世間的な立ち位置にこだわらず、自分で人生の楽しさを見つけることが幸せなんじゃないかな。お金をかけることが面白いと思えばそれやればいいし。僕なんかお金を使わない趣味の方が多いですが、それが楽しいと思うならやればいいと思います」



 物事を俯瞰した目で見てきた秀樹少年は、大人になっても変わらない。その目に映る世界は、きっと希望に満ち溢れたものではないだろう。とにかく自分自身を大切にして、やりたいことを「やればいいじゃん」。著書『捻くれ者の生き抜き方』の一節で本稿を締めくくりたい。





《「だったらやればいいじゃん」



 こういう考え方はカシンの影響ですね。IGFの試合の後に「あの時、ああすれば良かった」と言っていたんですよ。それを聞いていたカシンが「だったらやればいいじゃん」って。それからです。後でどうのこうの言うなら、その場でやっちゃう。



 やらないとゼロなんです。やれば良かったのかも、悪かったのかもわからない。



 だけどやればわかる。そこにリスクはあるんだけど、実はやらないリスクの方が大きい。



 



 これはフリーはもちろん一般の人にも言えることだと思います。》



 



(鈴木秀樹著『捻くれ者の生き抜き方』より引用)





文:篁五郎





プロレスラー鈴木秀樹「やればいいじゃん」 無気力だった少年から“マット界一面倒くさいレスラー”になった男からの檄文【篁五郎】
写真:鈴木秀樹選手提供

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