「別学を守れ!」多様性の時代こそ、男女七歳にして席を同じゅう...の画像はこちら >>



 「男女七歳にして席を同じゅうせず」という言葉がある。儒教の「礼記」に出てくるもので、幼児期を過ぎ、男女のらしさがはっきりしてきたら、交流を慎むべき、という意味で使われてきた。



 学校教育における男子校・女子校という「別学」のシステムも、この精神にのっとったものだろう。終戦を機に、共学化が進み、また近年では少子化による生徒不足から共学へと舵を切る学校が公立私立を問わず増えてきたものの、別学の伝統が大事にされている地域もある。その代表が埼玉県だ。



 しかし、最近、その伝統を揺るがそうとする動きが起きた。埼玉県男女共同参画苦情処理委員が昨年、県の教育長に「共学化が早期に実現されるべきである」と勧告。県が対応を迫られたのだ。



 ただ、県内に12校ある公立の別学校の卒業生や在校生及びその保護者は、大多数が「別学維持」を希望。ネットニュースのコメント欄も、同様だ。



 なぜ、そうなるかといえば、当事者はもとより、多くの日本人が別学のよさをわかっているからだろう。筆者のSNSにも「そこでしか生まれないよさって絶対あると思う」という声が寄せられた。幼い頃からの男子による体型いじりで摂食障害になったというその女性は、女子校に憧れ続け、大学でようやくそれを実現。



 「未練がましく女子大に行っても、共学より過ごしやすかった」



 と振り返っている。

異性が苦手なタイプの少年少女にとって、公立でも別学が選べる環境は大助かりなのだ。



 実際、このような勧告は20年以上前にも行われたが「別学維持」で落ち着いた。にもかかわらず、また蒸し返されているのは、蒸し返す側に今こそ好機だという気分があるからではないか。



 ここ数年、性をめぐる問題については、現状を改変しようとする動きが成功を収めることも多い。あからさまにいえば、一部の過激なフェミニストが騒ぎ立てているだけなのに、伝統的な文化やオタク系の若者文化が痛手をこうむったりする。





 昨年来のジャニーズ問題についても、その手の人たちがジャニーズファンを名乗る団体を作ってバッシング側に加担。事務所は潰れ、所属タレントは仕事を減らした。別学問題についても、こうした過激フェミによるキャンセルカルチャー運動の一環という側面があり、当事者以外からも嫌悪や反発が生じるわけだ。



 なにせ、過激フェミは男女同権を標榜しつつ、じつは女権を男権以上のものにしたいというすさまじい欲で動いている。それゆえ、男女がバランスよくやれているところにも首を突っ込み、かき回すのだ。別学問題もまた、そういう構図といえる。



 一方、過激フェミにとっては半世紀かけてやってきたことがようやく軌道に乗って来たという感覚かもしれない。

というのも、フェミによるキャンセルカルチャーが最初に成功したのが1975年。ハウス食品の即席めんCMに「国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会」がいちゃもんをつけ、放送中止に追い込んだ。



 そのCMは女性と女の子が歌い踊りながら即席めんを作り、男性と3人で食べるわけだが、その光景と「私作る人」「僕食べる人」という台詞に対し「男女の役割分担を固定してしまう」と抗議。ハウスはこれが人気CMだったこともあり、放送継続の方向で粘ったものの、



「消費者などからの反応は、あのままでいい、という声が圧倒的に多かったが、少数の声でも、謙虚に耳を傾けていくのは当然」



 として、これに屈してしまった。



 なお、このCMで男性役だったのが、サンミュージックの若手俳優・佐藤佑介。なよっとしたイケメンで、そのあたりもフェミをいらつかせたのだろう。そして、この件が祟ったのか、彼はなよっとしたイケメン的役柄がそれこそ固定されてしまい、40歳前に引退。サンミュージックの現社長が昨年出した本には病死したと書かれていて、不運な芸能人生だった印象を受ける。





 また、筆者にとってこの件はフェミの恐ろしさを知り、フェミニズムこそ文化の敵だと考えるようになったきっかけだ。芸能とフェミの歴史を見ても、大きな転回点。じつはこの4年前、当時の流行語でもあった「ウーマンリブ」をめぐり、男女が楽しくやり合う青春ドラマがヒットしていた。サンミュージックの若手俳優・森田健作が主演した「おれは男だ!」(日本テレビ系)である。



 作品の舞台は、女子校から共学化したばかりの名門私立高校。女子の力が強く、転校してきた主人公の入ったクラスにも帰国子女の女子リーダーがいた。主人公は剣道部を作るなどして、ウーマンリブ打倒を目指すものの、その過程で男女の相互理解が深まっていくという明るい内容だ。



 こうした構図は現在放送中のNHK朝ドラ「虎に翼」などにも通じるもの。ただ「虎に翼」には明るい楽しさが乏しく、時代の違いというか、フェミ台頭による悪影響も感じてしまう。令和の世で「おれは男だ!」のようなものを作ろうとしても、過激フェミに配慮したいびつなものになるのではないか。あるいは、埼玉の女子校が共学化したとして、主人公のような男子生徒が活躍できるとは考えにくい。



 ちなみに、森田はその後、政界に転じて千葉県知事にまで登りつめた。同じサンミュージックでも、佐藤とは明暗を分けたかたちだ。



 また「おれは男だ!」では、森田が歌った主題歌「さらば涙と言おう」もヒットした。作詞した阿久悠は森田について、



「あきらめるより仕方がない、と思っていた『日本の男の子』というイメージが、君によってよみがえってきた」



 と、評している。



 じつは今年2月「うたコン」(NHK総合)でこの曲がカバーされた。

歌ったのはミュージカル俳優でもある石丸幹二で、バックを務めたのは秋元康プロデュースのアイドルグループ・僕が見たかった青空。石丸が男らしく歌唱する後ろで、セーラー服姿の僕青の女の子たちが「だるまさんがころんだ」をやったり「茶摘み(あるいは、アルプス一万尺)」の手遊びをやったりしながら可愛らしく踊る。



 その様子がかつてのスクールメイツのようで、それをSNSでつぶやいたら、筆者以上のアイドルマニアでもある長年の友人から「ズバリ同じことを感じていました(笑)」というリプがついた。



 そのとき改めて気づかされたのは、こうした爽やかで潔い美というのは、男らしさと女らしさの対比的体現からしか生まれないのでは、ということだ。たとえば、高校野球が根強い人気を保っているのも、グラウンドで泥にまみれる丸刈りの男子を、チアガールや女子マネが応援し支える構図が健在だからだろう。



 ただ、歌の世界では「さらば涙と言おう」みたいなものはすたれてしまった。唯一、平成でこれに近いのがシャ乱Qの「空を見なよ」だろうか。つんく♂作品の夜っぽくてけばけばしい雰囲気とは異なり、はたけの曲にまことが詞をつけた爽やかで潔いナンバー。プロ野球中継のテーマ曲として作られ、文字通り「空」を気分よく見上げたくなるような内容だ。



 そのなかに、こんな詞が出てくる。



 「勇気や根性ならば見かけよりあるんだ おまえは愛嬌と色気忘れるな」



 まさに、男らしさと女らしさの対比的体現をやっているわけで、やはり、爽やかで潔い美はそういうものと通じ合うのである。



 もっとも「見かけより」というフレーズが物語るように、まことは男っぽいキャラではない。

また、シャ乱Qの活動休止後は仕事ぶりも地味で、女子アナ妻の富永美樹に食わせてもらっているのではと邪推したいような状況だ。



 が、それも構わない。定型的な男らしさや女らしさからの「ズレ」がある意味、その人の個性、すなわち自分らしさにもつながるからだ。男だけど甘党とか、女だけど格闘技好きとか。そのズレが最も大きいのが、中性的もしくは両性的な人たちだろう。



 芸能界にはそういうズレをあえて活かし、自分らしさとして貫くことで成功する人も少なくない。その生き方からは爽やかさはともかく、潔さは十分に感じられる。ただ、男らしさや女らしさの定義が曖昧化するにつれ、そんな人たちの存在感も曖昧化してしまうことに。それこそ、カルーセル麻紀やピーターみたいな突き抜けたオカマタレントが、マツコ・デラックスを最後に出てこなくなったのは、男は男らしく女は女らしくという美学が希薄化したことと関係しているはずだ。



「別学を守れ!」多様性の時代こそ、男女七歳にして席を同じゅうせず、で行こう【宝泉薫】
写真:PIXTA



 話を別学問題に戻すと、男子校や女子校にはやはり共学校にはない「らしさ」がある。どの「らしさ」が合うかは人それぞれなので、選択の多様性という意味でも、別学は残したほうが理にかなっている。極論すれば、男子校や女子校に行きたい人がゼロになるまで、続けてよいのではないか。



 なお、半世紀前、日本のウーマンリブを先導したのは中ピ連(中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合)という左翼集団だった。今回、共学化を支持するなかにも共産党勢力がいる。埼玉県では昨年、公園での水着グラドル撮影会がそういう勢力によって中止に追い込まれるという事件も起きた。左翼とフェミが連動すると、キャンセルカルチャーに走りやすいので、そろそろ徹底した対策が必要だ。



 そういえば戦後、別学が減少してきたなか、新たな「男女七歳にして席を同じゅうせず」も生まれている。電車の女性専用車両だ。



 あれなどはフェミ的な要望に応えた対策だが、その一方で、別学をなくせとか、大相撲の土俵に女性も上げろとか主張するのがその手の人たちである。別学のシステムは儒教由来、大相撲のしきたりも神事としての伝統によって育まれたわけで、歴史に裏打ちされたよさがある。もういいかげん、黙ってほしいものだ。





文:宝泉薫(作家・芸能評論家)



 

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