森羅万象をよく観察し、深く思考する。新しい気づきを得たとき、日々の生活はより面白くなる――。
第26回 どうなれば成功なのか?
【成功は競争から生まれる?】
「上手くいった」と思える瞬間が、日々の生活でも、また人生においても、ときどき訪れる。嬉しくて、「やった!」と叫びたくなる。このような体験が、その人の生きる喜びを形成するようにも観察できる。
では、この「やった!」とは、いったいどういう状態なのだろうか? もっと簡単にいうと、「成功とは何か?」という疑問である。
たとえば、ある人は勝負に勝ったときに、自分は成功した、と感じるだろう。またある人は夢が実現したとき、なんらかの利益を得たときに、「成功」を手にしたと考える。
誰にでも成功はあるし、この成功の大きさや回数によって、成功者とそうでない人に分かれていくようにも見える。多くの場合、成功すると社会的地位が上がり、金持ちになるから、人から羨ましがられ、自分の好きなことができる、とイメージされる。
ただ、少し想像してみたらわかることだが、社会の仕組みを変えても、成功者が入れ替わるだけで、やはり一部の人だけが成功する状況は変わらないだろう。たとえば、スポーツのルールを変更すれば、勝てる人が入れ替わるが、やはり、勝てない大勢の人たちがいるはずだ。この理由は単純で、成功者が一部なのは、一部だけに訪れる境遇が「成功」と呼ばれているためだ。99%の人たちが勝ち、1%の人が負けるようなギャンブルは存在しない。そんなルールにしたら、勝者が得る利益が100分の1になってしまい、満足が得られない。それでは「成功」といえなくなる。
では、このような「競争」という操作でしか、人は「成功」を獲得できないのだろうか? もしそうならば、成功は多数の失敗から搾取する行為といえる。客観的に見て、倫理的とはいえないし、心が痛む人も多いことと思う。
一般に、勝ち負けを競う行為は、それが仕事だということで処理される。仕事とは商売であり、生産して対価を得る活動だが、そこでは多かれ少なかれ、他者との競争に巻き込まれる。仕事でなくても、社会の中で良い立場を築くためには、競争に勝たなければならない。
【個人的な利益を成功と捉える】
さて、人を蹴落として手に入れるものだけが「成功」だろうか? それではあまりにも殺伐として、少々残念な気分になってしまう。そうではなく、自分が喜べるときが「成功」だと考えることもできるはず。勝つことでしか嬉しくなれない人が多いかもしれないけれど、日々の生活の中だって、ちょっとした「喜び」に出会えるし、それも立派な成功ではないか、と指摘したい。
たとえば、飼っているペットが可愛い、というだけで笑顔になれる時間がある。これは、ペットを飼った人の成功だろう。自分でなにかを作って、ちょっとした工夫が上手くいったときも、確かな成功感が味わえる。このような小さな成功は、何故か「小さい」と認識されがちだ。おそらく、社会的なものではなく、個人的なものだからだろう。周囲の多数から認められるものでもなく、「単なる自己満足だ」といわれてしまうこともありそうだ。
僕は、むしろそんな小さな自己満足こそが「成功」だと考えている。
他者に依存した成功は、たとえば、「認めてもらえない」「審判が悪い」「ルールが不公平だ」「組織が悪い」「景気が悪い」「政治が悪い」というような不満を生みやすい。自分一人では生み出せない「成功」だからそうなる。また、たとえ成功しても、なんらかの見返りを周囲から要求されたりする。そういう「成功」に、僕はあまり近づきたくない。だから、他者から褒められたりすると、少し引いてしまう方だ。
注目されたくない、有名になりたくない、人の上に立ちたくない。競争で勝ちたいとか、コンクールで良い成績を納めたいとか、全然思わない。僕はそんな人間だ。
僕の親父は、「一番になんかならない方が良い」と教えてくれたから、だから僕の子供たちにも同じように接した。子供は2人いるけれど、彼らの成績を見たことがない。「べつに勝たなくても良い」という方針である。
そのかわりに何が大切なのか、というと、それは「無事」である。子供たちが無事であれば、それで子育ては成功だ。親として、子供の安全を考えることが一番の責務だと思っていた。その子供たちはもう40歳くらいになった。生きていてくれれば、それで充分だし、親として「子育てに成功した」と自己評価できる。
【成功とは「またできる」こと】
それでも若い頃には、「無事」が成功だとまでは考えていなかった。成功というものは、もっとチャレンジの結果ゲットできるものであり、過去にない成果を得ることだというイメージがあったからだ。しかし、歳を重ねることで、そうではないな、と確信しつつある。
たとえば、工作の第一目的は何か、というと、それは「怪我をしないこと」だ。
では、その「無事」にはどんな意味があるのか、どんな価値があるのか?
現状維持では意味がない、と考える人もいらっしゃるだろう。若い頃の僕はそう感じていて、なにかを変えなければ意味がない、成長しなければ価値がない、という観念に取り憑かれていた。だが、それは自分を競争へ駆り立てるような焦りにほかならない。考えてみたら、制限時間が決まっているわけでもなく、またゴールがどこかにあるわけでもない。人生というのは、永遠ではないけれど、いつが終わりなのかわからない。そして、最後には、無に帰すものである。
それでも、「無事」でありさえすれば、またチャレンジができる。つまり、この「またできる」という感覚こそが「成功」の証なのではないか、と思うようになった。いろいろ失敗があったり、反省が多々あったりしても、「またできる」状態ならば、それは「成功のうち」であり、「成功の一部」だと考えることができる。
そんなことはない、一度きりのチャンスというものが訪れる場面があって、それを逃したらもう成功は望めない、といった反論がありそうだが、そういった一度きりのチャンスというのは、まちがいなく他者が設定したものだろう。僕が考える成功は、自分一人の評価に基づいているので、一度きりのチャンスなんてものは存在しない。いつだってチャンスはあるし、もっと大きなチャンスだって、いずれ訪れる。だからこそ、焦らず、ゆっくりと、自分の無事に注意を払いつつ進めば良い。
「無事」を重ねることが、人生の成功である。少し気をつけていれば、誰でもできる。ときどき予期せぬ不運が襲ってきても、また少しずつ無事を重ねて挽回していけば良い。勝たなくても良い。負けても良い。またの機会を待てることこそが、成功の価値なのである。
【現在の職業は修理屋】
最近の工作の80%は修理である。古くて半分壊れているおもちゃを長年買い集めてきたので、これらを倉庫から引っ張り出しては、分解し、なんとか機能が復活するまで修復している。新たに部品を作らないといけない場合も多いけれど、なんともならないというものはない。なんとかはなる。生き物と違って、人工物は必ず修理して復活できる。大部分が壊れているときは、その大部分を作り直せば良いだけのこと。
人間の場合はこうはいかない。自然に治るものもあるが、そうはいかないときは、人工物を体内に入れたり、あるいは移植しかない。たとえそれをしても、寿命が少し延びるだけで、いつか死ぬことに変わりはない。躰のすべてを機械にしてしまう以外に、永遠に生きることはできないし、それが可能になったとしても、「生きている」の定義が問題になるだろう。
壊れた機械を直す行為が面白いのは、どうしてなのかな、といつも考える。壊してしまうよりは、直す方がずっと面白い。これは、生き物の本能だろうか? もしかして、「生きる」とは「直す」という行為の集積だろうか?
文:森博嗣