本日9月12日は、ドキュメンタリー映画監督・佐藤真の誕生日である。佐藤自身は2007年に49歳で急逝したものの、今年は佐藤が残した作品が、再び国内で大きな注目を集める年となった。







 というのは、「暮らしの思想」と題された佐藤作品のレトロスペクティブが、5月末から行われていることが大きい。首都圏での主だった上映はすでに終了したものの、全国での上映は続き、活況を呈している。4Kレストアされた『まひるのほし』『花子』『エドワード・サイード OUT OF PLACE』の3本のほか、『阿賀に生きる』『阿賀の記憶』『SELF AND OTHERS』も含まれており、佐藤監督の全6本の長編ドキュメンタリーを網羅できるプログラムとなっている。



 開催を記念し、早稲田大学では4月20日、<小森はるか監督登壇 早稲田大学講義「マスターズ・オブ・シネマ」<佐藤真 RETROSPECTIVE 開催記念>>として、ドキュメンタリー映画監督の小森はるかさんによる特別講義が行われた。







 小森さんは新潟在住で、現在は『阿賀に生きる』の関係者を追ったドキュメンタリー映画を制作しているという。そうした縁もあってか、講義ではまず『阿賀に生きる』を上映し、そののちに早稲田大学文学学術院教授の角井誠氏を聞き手に、90分におよぶ小森さんのトークが繰り広げられた。本稿では講義における小森さんの言葉を通して、『阿賀に生きる』、ひいては佐藤真作品の持つ魅力を探っていきたい。



 



◾️震災時に気づいた『阿賀に生きる』の魅力

 



 さて、1992年に発表された佐藤のデビュー作であり、代表作とも目される『阿賀に生きる』は、日本のドキュメンタリー史を語る上では欠かせない作品である。ただ、その内実、また理由については前置きとして性急に説明するよりも、小森さんの言葉からじっくりと感じていただくことのほうが大きな意味があるだろう。



  多くの場で『阿賀に生きる』への強い思いを語っている小森さんだが、その出会いは大学1年生時における、映画の授業の場であったという。「その時は全然面白いと思えず、授業中に寝てしまいました」と苦笑する小森さんは、しかし2度目の出会いで、その面白さに目覚めた。それは小森さんが大学を卒業し、大学院に進学しようとする2011年の春。

ちょうど東日本大震災が起きた直後で、小森さんは東北へと移住し、変わりゆく土地や人々の姿を映像で記録していく活動をはじめようとしていた。やがてその活動が『息の跡』をはじめとしたさまざまな映画作品へと結実していくが、その準備として、「その地域に暮らし、暮らしながら撮る」ドキュメンタリーを探したところ、『阿賀に生きる』へとふたたびたどり着いたのだ。





ドキュメンタリー映画『阿賀に生きる』はなぜこれほどまでに輝か...の画像はこちら >>



 



 では、2度目の鑑賞では、小森さんは『阿賀に生きる』のどのような点に魅了されたのか。「出てくる人たちのいきいきした感じ」にあったという。映画の中心になるのは、3組の老夫婦。先祖代々田んぼを守り続け、日々農作業に汗を流す長谷川芳男さんと妻ミヤエさん。船大工の遠藤武さんと、そばで支える妻のミキさん。「餅屋のじいちゃん」と慕われ、じっさいに作中でも見事な餅つきを披露する加藤作二さんと妻キソさん。「映画のなかでは、やがてテロップやナレーションを通じて、この人たちが新潟水俣病という公害の患者であることがわかります。でも、それを知っても、みなさんのいきいきとしたかっこよさは揺らがない感じを覚えたんです」



 そう。『阿賀に生きる』の舞台となる新潟県阿賀野川流域は、上流にある鹿瀬町(現・阿賀町)で操業していた化学工業・昭和電工が垂れ流した工業廃水によって、新潟水俣病が引き起こされた地域なのだ。阿賀野川の豊かな恵みとともに生きてきた彼らも、廃水の毒を受け、身体に障害が残っていることがしだいに了解されていく。







 にもかかわらず、作品のトーンは決して悲劇的にはならない。なぜか。それはひとつには、小森さんの言葉にあるように、登場人物の「いきいきとしたかっこよさ」が画面に刻まれていることに起因するだろう。小森さんがその例として挙げるのは、遠藤武さんの表情だ。工房はすでに閉鎖していた遠藤さんだが、弟子を取ることになり、久しぶりに船づくりを再開する。弟子に指導するときの威厳に満ちた表情や、できあがろうとする船に名前を入れようとするときの誇らしげな表情が印象に残ることを語る。



 また、イデオロギーには収まりきらない、日常の豊かさがたしかに反映されていることも大きいのだという。たとえば、加藤家で鍋を囲む中で、脇でキソさんがペヤングをつまんでいるシーン。「都会にはない豊かな暮らし」を強調するのであれば、やや不都合にも感じられる場面だが、むしろこのようなでこぼこにも感じられるシーンがあることで、イデオロギーに還元されない生活の豊かさが逆に浮き上がってくるのだとも。



 加えて、「中断」も彩りを与える。小森さんもお気に入りのシーンとして挙げた、映画の前半、長谷川芳男さんが鮭の取り方を説明するシーンはその最たるものだろう。かつては農作業とともに、鮭の鉤流し漁を行っていた芳男さんは、用具を操りながらの説明にも熱がこもっていく。

しかしそのさなか、「話しちゅう申し訳ねえども」とミヤエさんがあらわれ、じゃがいもがどこにあるかを芳男さんに尋ねる。漁の内実をつまびらかにすることのみに焦点を当てるのであれば、この中断はアクシデントともなりうる。しかし、佐藤やスタッフはそのようにはとらえず、画面の中にその「中断」を残した。むしろ、そうした予期せぬこと、その場の文脈と無関係のことが絶えまなく起きるほうが「日常」らしさではあるだろうし、それを重視したことが、『阿賀に生きる』の豊かさにつながっていることが伝わってくる。



ドキュメンタリー映画『阿賀に生きる』はなぜこれほどまでに輝かしい人間の息吹を感じるのか?  故・佐藤真監督の眼差しとは【若林良】



 



◾️「他人のように思えなくなってくる」

 



 「出てくるひとが他人のように思えなくなってくる」と、小森さんは『阿賀に生きる』について語る。それは作品の節々から、スタッフが被写体となる方と親密な関係性を築いたことが伝わってくるからかもしれない。現在は機材の軽量化が進み、スマートフォンで撮影された作品が劇場で公開されるというケースも見受けられるようになった。しかし、『阿賀に生きる』当時はまだフィルム撮影であり、作品には「フィルムをからから回す音」があらわれていることを小森さんは指摘する。「また、村の家には明るい照明があるわけではないので、ちゃんと照明を焚かないと、フィルムに映らないこともあります。ただいろりでご飯を食べるようなシーンでも、けっこう大掛かりな撮影が必要になるんですね。つまり、被写体になる方にも、はっきりと機材の存在は認識できますし、その中であんなふうに自然なかたちで撮影できたということが、本当に驚きです」



 日本のドキュメンタリー史において二大巨頭と呼ばれるのは、小川紳介と土本典昭だ。本稿ではこのふたりの作家的な特色の深部に踏み込む余裕がないので、簡単な紹介にとどめるが、両者はひとつの土地に住み込み――小川であれば三里塚や牧野に、土本であれば水俣に――、そこで作品づくりを続けてきたという点で共通する。

それは佐藤の『阿賀に生きる』にもまた引き継がれた作法だが、しかし、小森さんは、小川・土本との佐藤の違いも改めて強調した。「小川さんや土本さんは、その土地に住み込んで暮らす中でも、被写体となる方たちと一定の距離は置いていました。でも佐藤さんの場合は、畑仕事を手伝ったり、日常的な交流もありましたよね。政治的な戦いではなく、あくまで日常を重視した点に、佐藤さんの特色があると思います」



 「日常」という言葉はここまででも幾度か使用してきたが、この言葉は佐藤の世界から決して離れたものではない。佐藤自身も、『阿賀に生きる』の成り立ちを振り返った書籍(『日常という名の鏡』)に「日常」の二文字を付しているように、そもそも佐藤の主眼は、「日常」をどのように画面に反映させるかということにあった。



 では、その試みはどこからスタートしたのか。『阿賀に生きる』が作られるうえで重要なキーパーソンとなったのは、出演者でもある旗野秀人さんだ。そもそもの成り立ちを整理すると、『阿賀に生きる』の制作の起点は、1984年に佐藤が助監督を務めた映画『無辜なる旅――一九八二年・水俣』を全国で自主上映する、その旅の過程で安田町を訪れた際、安田町の水俣病未認定患者の会のまとめ役をしていた、当時34歳の旗野さんに出会ったことにあった。出会いの夜に大酒を飲んで佐藤と意気投合したという旗野さんは、上映会ののち、阿賀野川の川筋の家々に佐藤を案内し、以下のように繰り返し佐藤を鼓舞した。



 



「水俣病問題も、川の暮らしもどうでもいい。この囲炉裏や茶の間の出来事をそっくりそのまま撮ってもらえば、立派な映画になるんだ」



 



 そこから、自身の映画のスタイルのテーマも、「ありきたりの日常を見つめていこう」という方向にはっきりと向かっていった――そう佐藤は振り返っている。 



 政治的、社会的なイデオロギーのみに還元されない、目の前の日常をしっかりと見つめること。

このような姿勢は、今ではそこまで新鮮には響かないかもしれない。しかし、当時はドキュメンタリーの多くは「社会問題」を扱ったもので、とりわけ『阿賀に生きる』のように、まさに「社会問題の温床」とも呼べる土地を舞台にしながらも、かつ「社会問題」を描くことを主眼としないような作品は、ほぼ類例がなかった。



 では、なぜ『阿賀に生きる』のような作品が可能になったのか。もともと『阿賀に生きる』は、いわゆる「プロ」の集団によって作られた作品ではなかった。佐藤にしてもこれがはじめての長編ドキュメンタリーの制作であったし、撮影の小林茂さんは、写真や助監督の経験はあるものの、映画撮影の経験はなかった。ほかのスタッフの方にいたっては、たとえば鍼灸師や証券会社の社員など、映画に関連したキャリアがあるわけではなく、いわば人の縁やその場のノリなどを通して、『阿賀に生きる』に携わることとなったのだ。いわば「手さぐり」であるからこそ、既存の作法を離れた『阿賀に生きる』は生まれたのだと言えるし、小森さんもまた、「経験のない人たちが手さぐりで作る、そういう風に映画を作ってもいいということに救われたし、悩み続ける勇気をもらいました」と語る。



  『阿賀に生きる』の撮影をはじめた1989年には、最年少のスタッフが18歳、佐藤は32歳、最年長の小林さんが35歳だった。「30代って、けっこういい大人じゃないですか。スタッフの方たちの中にも、結婚して子どもがいた方もいて。でもそういう方たちが、3年間阿賀に住み込んで映画を作ったということに励まされます」



 





◾️「適切な距離」を探ること

 



  「『阿賀に生きる』は編集の映画でもあると思います」と小森さんは続けた。「なんでこのシーンとこのシーンがとなり合えるのか、わからないことが多くて、見るたびに驚きがあります」。

小森さんがその例として挙げるのは、中盤、法律関係者たちをふくめて昭和電工の排水溝を視察するシーンの「次」だ。続くシーンでは白鳥がいっせいに飛び立つシーンとなり、その「飛躍」にはとくに驚かされたという。「同時に、何かの“意味”に還元される以前の面白さがこのシーンにはあります。阿賀野川から飛び立つ鳥が未来の象徴だとか、そういう解釈をする以前に、その飛び立つ姿に感動しますし、“意味”へと落とさない見せ方に感動しているのかもしれません」





 ドキュメンタリー映画は、「ありのままの事実」をそっくりそのまま撮った映画だと思われる側面はある。しかし、仮に観客にとっては「ありのまま」に見えるとしても、作り手にとっては「ありのまま」に、目の前にあるものにただ漫然とカメラを向けるなかで傑出した作品ができあがるなどということはない。むしろ現実の肌触りを作品に刻印するために、作り手には高度な戦略が求められる。それがたとえば、小森さんが言及する編集の巧みさであり、また先述した予想外の「じゃがいも」であるだろう。



 ひるがえって、『阿賀に生きる』のエッセンスは、小森さんの作品にはどのように受け継がれているか。作品の影響は大きくは、「距離」の取り方にあるという。冒頭で述べたように、小森さんは震災後、陸前高田に住み込み、そこで蕎麦屋のアルバイトをしながら「記録すること」を続けていった。現地で種苗店「佐藤たね屋」を営む佐藤貞一さん――その自宅を兼ねた店舗は震災の津波で流され、撮影時の店舗は佐藤さんが自力で建てたプレハブとなっていた――のもとに、小森さんは足しげく通い、それはやがて『息の跡』へと結実する。種苗の販売を続けながら、自身の震災経験とその後の生活、また陸前高田の歴史や文化について、独力で身に着けた外国語で発信を続ける佐藤さんをはじめ、震災の傷を抱える方たちと、小森さんはどのように向きあったのか。小森さんは「適切な距離」という言葉で、最後に自身のスタンスを次のように説明した。





「ドキュメンタリーを作るうえでは、何か大きなことが起きているときに、カメラを持ってその場にいることが必要となります。もう一度やってくださいとは言えないので、被写体になる方のそばに、自分ができるだけいるのが理想的かなと。ただ、それはその人とすごく仲良しになったから、お互いにすごくわかりあったからそうさせてくれるわけではありません。お互いにわからないものがあって、同じように痛みを感じることができないと知ることで、そこに“いていい”が生まれるんだと思います。私は撮影をさせていただく方と、仲良くなるためというよりも、そのような適切な距離を掴むために、対話を続けているのだと感じています」





 「適切な距離」――。それは作家にとっては、何らかのマニュアルに沿う形で容易に掴めるものではなく、作品のたびに、被写体となる人々との真摯な対話によって少しずつ得られていくものではあるだろう。



 



 同時に、一観客の視点からすれば、この言葉は「観客であるあなたは、映画とのあいだにどのような“関係”を結ぶか」という問いを投げかけるもののようにも感じられてくる。じっさいに、筆者も『阿賀に生きる』にあるたしかな「生」に出会うたびに、自分はこの人たちに負けないように日々いきいきと生活しているのか。自分の目の前の仕事に、ちゃんと誇りを持てているのか。思わず自身への問いかけが生まれ、猫背気味の背中も、自然と伸びるように感じられてくる。



 とはいえ、これはあくまで筆者個人の感覚であり、佐藤作品の未来の観客に対して、自身の見方を押しつけるつもりはない。『阿賀に生きる』はもちろん、知的障害を抱えるアーティストたちに肉薄した『まひるのほし』や『花子』も、撮影時はすでにこの世を去っていた彼岸の人――写真家の牛腸茂雄や思想家のエドワード・サイード、そして『阿賀に生きる』の出演者の方たち――の“不在”に向き合った『SELF AND OTHERS』『エドワード・サイード OUT OF PLACE』『阿賀の記憶』も、作品には何かを学ぶという以前に、表面的なテーマやイデオロギーに還元されることはない、輝かしい人間の息吹が感じられる。まずはその豊かさを、じっくりと味わっていただければと思う。この言葉は、筆者自身にも向けて書いている。一応は佐藤作品をすべて鑑賞した筆者も、根源的な感動を忘れることなく、これからも佐藤の遺産へと向き合っていくつもりだ。







追記:なお余談だが、都内には「佐藤真文庫」がある。江戸川橋駅(東京メトロ有楽町線)から徒歩5分ほどのビルのなかに、佐藤真が残した資料や書籍の一部が収蔵されているスペースが存在し、現在は月に1回ほど、週末に開館している。公式サイトから詳細は確認できるので、興味がある方はぜひ一度足を運んでいただければと思う。筆者もいることが多いと思うので、お話をする機会を楽しみにしている。



公式サイト:https://satomakotobunko.themedia.jp/



 



参考・引用文献



佐藤真『日常という名の鏡 ドキュメンタリー映画の界隈』(凱風社)



佐藤真『ドキュメンタリーの修辞学』(みすず書房)



佐藤真『ドキュメンタリー映画の地平 世界を批判的に受け止めるために』(凱風社)



里山社編『日常と不在を見つめて ドキュメンタリー映画作家 佐藤真の哲学』(里山社)





特集タイトル:「暮らしの思想 佐藤真 RETROSPECTIVE」



作品別画像コピーライト:



『まひるのほし 』→©️1998 「まひるのほし」製作委員会



『花子 』→©️2001 シグロ



『 エドワード・サイード OUT OF PLACE 』→©️2005 シグロ



『阿賀に⽣きる 』→©️1992 阿賀に生きる製作委員会



『阿賀の記憶 』→©️2004 カサマフィルム



『SELF AND OTHERS 』→©牛腸茂雄



佐藤真監督画像→©村井勇



公開表記:全国順次公開



配給・宣伝:ALFAZBET 



HP:https://alfazbetmovie.com/satomakoto





文:若林良

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