2024年9月20日、文芸評論家の福田和也氏が急性呼吸不全で死去した。その影響力は大きかったのだろう。

SNSは追悼の言葉であふれた。朝日新聞デジタルは、「保守の論客、テレビでも活躍」との見出しで報道。これに違和感を覚えた人のツイートもあった。「たしかにそういう時代だなとはいえ、いささか不憫な感じは否めないな」と。「テレビでも活躍」ねえ……と。新刊『自民党の大罪』(祥伝社新書)で平成元年以降、30年以上かけて、自民党が腐っていった過程を描写した適菜氏の「だから何度も言ったのに」第72回。





■『CIRCUS』の連載「揚げたてご免!!」



 文芸評論家の福田和也が亡くなった。享年63。敬意を込めて敬称は省略する。最後にお会いしたのはいつだったか覚えていない。文章をあまり発表しなくなる前だから、多分10年以上経つ。



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 もしかしたら新宿のバー「猫目」かもしれない。

扶桑社の編集者たちとテーブル席に座っていた。軽く会釈して、カウンターに座ると横に康芳夫さんがいたので話をした。しばらくしてふと振り向くといなくなっていた。



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 初めて「福田和也」という名前を知ったのは『噂の真相』の記事を大学生の頃、読んだときかもしれない。これも大昔のことなので曖昧な記憶しかない。



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 アルバイト先の社長が福田の知人だったので、何回か顔を合わせるようになった。もちろん込み入った話をすることは一度もなかった。



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 1999年に『罰あたりパラダイス』(扶桑社)が出版されたとき、青山ブックセンター本店で刊行記念イベントがあり、見に行った。なお、ネットで検索したが関連の話が出てこないので、一部私の記憶違いの可能性はある。最初に座談会のようなものがあった。 島田雅彦さん、さかもと未明さん、もう一人は誰だったか覚えていないが、康さんかもしれない。



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 座談会の後、第二部で福田は上半身裸に黒いベストを着て、ギターを持って、歌を唄った。

正直、見れたものではなかったが、福田の担当編集者でもあった光文社の高橋靖典さんにその旨伝えると、「あれは音響担当が悪い」と庇っていた。



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 その頃、六本木のイタリア料理店「ラ・ゴーラ」で何回か福田に会った。当時、福田は友人でシェフの澤口知之さんについてよく書いていた。私は友人が少ないが、澤口さんとはよく一緒に飲み歩いていた。千駄木のバーにもよく行った。その澤口さんも死んでしまった。



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 福田とは結局5年間、毎月会うことになる。2005年、KKベストセラーズの『CIRCUS』という雑誌で、「揚げたてご免!!」という対談(相手は石丸元章さん)の連載がはじまる。月に一回、トンカツ屋に集合し、トンカツを食べながら対談する。私はそれを記事にまとめた。おかげで東京のトンカツ事情にはかなり詳しくなった。東京だけではない。

遠いところだと、長野県の上田市にも行った。



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 福田にはトンカツについていろいろ教えてもらった。今でもトンカツはよく食べる。福田の訃報を聞く直前には、浅草の「ゆたか」でロースかつ定食を食べていた。その翌日には、池袋の「二矢」で上ロース定食を食べた。なかなかおいしい。



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 対談の際も私はトンカツに夢中になっていたので、テーマについて口を出したり、議論することはほとんどなかった。福田と意見が一致することもほとんどなかった。特に政治家に対する評価はほぼ真逆だった(たとえば石原慎太郎や安倍晋三)。だから福田には「面倒くさいやつ」「いけ好かないやつ」と思われていたかもしれない。私は追従する空気が嫌いだったので、失礼なことも何度か言った。でも、「仕事仲間」ということでぎりぎり許されていたのだろう。



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 問題はこの「仲間」という言葉である。福田を貫いているように見えたのは、仲間意識である。仁義を重視する。一度仲間と認めた人間は最後まで守る。教員として学生の面倒も最後まで見る。たまにそれが、仲間に対する甘い評価につながるように見えて私は不満だった。福田は任侠映画やマフィア映画について語ることが多かったが、それも同じ文脈なのだろう。私は任侠やマフィアの論理が大嫌いだった。



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 福田が編集者を評価するときも、「あいつは著者を裏切らないからな」みたいな言い回しをする。2016年、福田と講談社の原田隆さん(私の担当編集者でもあった)らが香港に行ったが、渡航先で原田さんは脳出血を起こし死んでしまった。澤口さんが死んだのが2017年、坪内祐三さんが死んだのが2020年。私も原田さんと澤口さんが死んだときは相当堪えたので、福田はもっとキツイだろうなと当時思ったものだ。



福田和也という人物と仕事をした5年間の記憶【適菜収】の画像はこちら >>



■トンカツと国家権力



 福田は基本的には温厚な人間である。あるとき、変なトンカツ屋の店主が絡んできたので、私が戦闘態勢をとると、「まあまあ」みたいな感じで止められた。しかし一度だけ怒ったことがあった。当時、内田樹が「贈与論」について書いた記事が話題になっていて、他にもいくつかネット記事が出てきた。それでトンカツ対談の際、私が「贈与論みたいなものが流行っているんですか」と話題を振ると、珍しく「そんなもの流行っていないよ!」と大きな声を出した。一般社会とは関係のない狭い世界の話を「流行」という言葉に関連付けたことが気に入らなかったんだろうなと、当時の私は思った。真相はわからないが。



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 「揚げたてご免!!」で私が見出しに使った「快楽の思い出はナチだろうとスターリンだろうと誰も奪えない」という福田の言葉がある。いい言葉だなと思った。やりたい放題やって思い出を溜め込んで生きてきたのだから、死んでも悔いはないのかもしれない。まあ、死んだら思い出もゼロだけど。



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 この話の流れで言うと、昔、石丸さんと目白にあんみつを食べに行ったことがある。

歩いていると、警察官5人くらいとすれ違った。そのとき石丸さんが「官憲でも心の中にまで踏み込むことはできないからなあ」とボソっと言った。



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 さらにこの話の流れで言うと、澤口さんが六本木を歩いていて職務質問され、鞄から包丁が出てきて大騒ぎになったらしい。コックだと言っても信じてもらえなかったと。澤口さん、見た目はチンピラかヤクザ。その警察官の気持ちもわかる。



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 「ラ・ゴーラ」の後、澤口さんは近くに「リストランテ アモーレ」という店を出した。アモーレの料理は強烈だった。だから他のイタリアンに行っても、物足りなく感じる。「アモーレ」でやっていた福田の仲間内だけの忘年会に、私は呼ばれてもいないのに間違えて行ってしまったこともあった。ネットで調べたら、アモーレがあったのは2004~2012年とのこと。光陰矢の如し。人生、あっという間ですね。





文:適菜収



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