週刊文春の報道に端を発した性加害疑惑によって、突如として表舞台から姿を消した「松ちゃん」こと松本人志。渦中の松本へ、ゆかりのある識者たちがそれぞれの視点から寄稿した『ありがとう、松ちゃん』(KKベストセラーズ)が話題だ。

本書に寄稿しているテレビプロデューサーの鎮目博道氏は「テレビから松ちゃんが消えた理由は、テレビからプライドが消えたから」と分析する。裏取り取材をせず、思考停止で週刊誌の報道をまとめて出すだけ。今回の一件で透けてくる、テレビの“破滅的”現状とは。



■「松ちゃんが突然テレビから消えた」異常事態

 「松ちゃんが突然テレビから消えた」のは、かなり異常なことだ。日本のテレビ局は、どれほど、松本人志さんにお世話になったか知れない。言ってみれば「テレビ最大の功労者」が「本当かどうかまだ分からない話」を理由として、びっくりするほど突然、テレビからいなくなってしまったのだから、おかしいとしか言いようがない。



 しかし、残念ながら「松ちゃんが消えたこと」は、テレビ業界の内部を知る我々テレビマンにとって、それほど不思議なことではない。「松ちゃんですら、ある日突然消えてしまう」ということは、テレビに出ている誰が、突然消えても不思議はないということだ。それほどテレビはいま、おかしなことになってしまっている。



 じつは「テレビから松ちゃんが消えた理由は、テレビからプライドが消えたから」ではないかと私は考えている。テレビから消えてしまった「プライド」とは何か、を説明しよう。それはいくつかある。



 まず、最初は「報道機関としてのプライド」だ。



 かつてテレビ局には「他の媒体が記事を書いても、それを自分たちで確認取材するまで放送しない」というルールがあった。これを業界用語で「裏取り」というが、私がテレビ朝日に入社した20世紀には「たとえ朝日新聞が記事にしていても、自分たちが取材して確認できないことは放送しない」ことをテレ朝は徹底していたし、各局もそうだった。「報道機関としてのプライド」を持っていた。しかし今回、テレビ各局は、松本人志さんに関する週刊文春の記事を、確認することなく、そのまま紹介し続けている。





■テレビ報道は裏取りをしなくなった

 いつの頃からか、テレビは裏取りをせずに他メディアの報道をそのまま放送するようになった。「〇〇によると」というエクスキューズをつけるだけで、あたかも自分たちが確認してきた事実のように「ニュース」として扱っている。いつからか? というと「文春砲」という言葉が一般化してきた10年ほど前からのように思う。雑誌などのスクープに乗っかったほうが楽だし、視聴率も取れる。ちょうど、番組制作費がどんどん削減されていく潮流の中で、テレビはいつしか「取材しないメディア」となってしまった。



 取材するのは、記者クラブを通じた官公庁などの発表だけ。独自取材でスクープを狙うことは極端に減った。

すでに報道機関としてのプライドは消えてしまったと言わざるを得ない。



 いまやニュースの視聴率は、「いかにスクープを取ったか」ではなく「いかに分かりやすく伝聞情報をまとめたか」にかかっている。スタジオに大きなパネルやテロップを用意して、アナウンサーが分かりやすく解説すると視聴率がとれる。そのほうが制作費も安く済む。パネルを上手に作れるADはいまや各局で引っ張り凧だ。他媒体やネット上の情報をまとめる「まとめサイト」のようにテレビニュースはなってしまっている。



 文春の報道を裏取り取材もせず引用して、そこに「いろいろな人々の感想」を乗っけたニュースをテレビが放送し続ける中で、松ちゃんは消えた。いちおう「出演自粛」という形になってはいるが、吉本興業という大手芸能事務所の看板を背負う立場を考えると、実質「周囲に迷惑をかけないために出られなくなった」ということだろう。その空気を作ったのは、連日のテレビ報道だ。もしテレビが報道機関としてのプライドを捨てず、裏取りできない限り文春を引用しない方針で放送していたら、また状況は違っていたのではないか。



■芸能取材をするワイドショー」がいつの間にか消えた

 そして「テレビから消えたもの」はもうひとつある。それは「芸能取材をするワイドショー」だ。



 かつてテレビ局にはワイドショーという強力な「芸能取材チーム」が存在した。各局のワイドショーが芸能取材にしのぎを削り、芸能人のスキャンダルを雑誌やスポーツ紙より先にスクープすることも、しばしばあった。しかしいまでは、ワイドショーは芸能取材をほとんどしなくなり、ワイドショーが芸能スキャンダルを暴くことはほぼゼロである。



 芸能取材をやめた理由はいくつかある。大きな理由のひとつは、オウム真理教による坂本一家殺害事件を契機にTBSがワイドショーの制作をやめ、他の局もワイドショーの制作を「報道やバラエティ制作部門の傘下に置いた」ことだ。報道の傘下に入ったワイドショーは、ニュースを中心に扱うようになり、バラエティの傘下に入ったワイドショーは、タレントに頼るようになった。そして、どちらも芸能取材をあまりしなくなった。



 そこに「営業的、編成的な事情」が重なった。あるタレントのスキャンダルを放送することは、そのタレントを使うCMを放送する企業にとってうれしいことではない。さらに、そのタレントをキャスティングしているバラエティやドラマの関係者からも嫌がられる。だから営業局や編成局から「芸能スキャンダルはやめておけ」という圧力が次第に強くなり、ワイドショーは芸能取材をしにくくなった。ワイドショーは、次第に芸能メディアとしてのプライドである「芸能取材」を捨ててしまった。





■テレビ局には取材能力のある芸能記者はもういない

 こうしてワイドショーから「敏腕芸能デスク」も「名物芸能レポーター」も消えてしまい、「雑誌やスポーツ新聞を丸のまま引用するしかできない」状況になってしまった。だからある意味、松本人志さんがいくら「潔白だ」と主張しても、テレビ局には取材能力のある芸能記者はもう存在していない。それが悲しい現実なのだ。「健全な芸能取材能力の喪失」という意味では、じつは松本さんがテレビから消えたことと、一連の旧ジャニーズ事務所の問題とは、同じ根っこから発生しているのだ。



 かくして、ホントかウソか確認もされぬまま松ちゃんはテレビから消された。しかし、よく考えてみると、文春ですら「松ちゃんをテレビから消せ」とは一言も言っていない。ただ疑惑を取材して記事にしただけだ。



 ではテレビ局の誰が松ちゃんをテレビから消したのか? というと、じつはほぼ誰もいないのではないか。実態としてテレビ局はいま「どのタレントを出演させるか」ということにおいて、ほぼ何の決定権も持っていないに等しい。あらゆるスキャンダルを起こした(と見られる)タレントの出演可否は、ほぼスポンサー企業か芸能事務所の言いなりで決まっているからだ。



 「スポンサーが難色を示している」と聞けば、「じゃあやめておこう」となる。もしスポンサーが明確に難色を示していなくても、「なんとなく嫌そうだ」と聞いたら、その意向を忖度して「とりあえずやめとこう」ということになるのが、現在のテレビ局の上層部だ。

「テレビはオワコンだから、スポンサーがつきにくい」ということをあまりに恐れ過ぎている。だから、ほんの少し視聴者からクレームが来ても、ビビってしまう。「とにかくクレームが来ないようにする」ということだけをテレビ局の上層部は考えていると言っても過言ではない。つまり、「誰を出演させるか」という、テレビ局の根幹に関わる「編集権」まで放棄してしまい、自分たちの脳みそでは何も考えなくなっている。



■放送局としてのプライドももはやない

 「コンプラ案件」に関して、テレビ局は思考停止状態。世間の顔色を窺っているだけで、放送局としてのプライドはすでに完全に消えている。



 だから、「松ちゃんがテレビから消えたこと」は、テレビから「報道機関としてのプライド」と、「芸能ジャーナリズムとしてのプライド」と、「放送局としてのプライド」が消えてしまったことの表れなのだ。



 この状況は、明らかに異常かつ危惧すべき状況だ。こんな状況を放置しておいてはいずれ、テレビからもっと大切なものが消えていくだろう。それは「視聴者」かもしれないし、「信頼」かもしれない。あるいは「テレビ自身」が消えてしまうかもしれない。そうなる前に我々テレビマンは、嘆かわしい現状を自らの手で改革していかなければならないのではないか。



『ありがとう、松ちゃん』より構成〉

編集部おすすめ