著者に代わって本を書く、「ブックライター」という職業をご存知だろうか。本の良し悪し、売れ行きを左右する重要な存在だが、あまり表にフューチャーされることはない。
■ブックライターへの依頼が止まらない理由
多くの人は「本=著者自身が書くもの」というイメージを持っているはずだ。しかし、とくにビジネス本や自己啓発本の場合、著者自身が書いていることは稀である。例えば『「書ける人」になる!今すぐできるシンプルな書き方の極意』のような文章術の本や、『そのモヤモヤは言葉にできます!プロが教える「想いを言葉にする」技術』といったような言語化がテーマの本であっても、ブックライターが文章を書いていることがある。
なぜ、本人が書かないのか。
その理由は主に2つ、「忙しい」と「書けない」からだ。
一般的に本を出せる人というのは、少なからずその道のプロや、何かしら成功を収めている人になる。しかし小説家などの専業作家を除いて、多くの著者は本業で忙しい。
一方で、1冊の本に必要な文字数は膨大だ。判型にもよるが、一般的な単行本の相場は10万文字。大学の卒論を5回出す(一般的に大学の卒論の文字数は2万~4万字とされる)、400字詰め原稿用紙を250枚書く、140字のXのポストを714回するのと同じ文字量、といったらその途方もなさが伝わるだろうか。
ただでさえ多忙な著者にとって、このボリュームを書く時間を捻出するのは簡単ではない。
2つめは「書けない」。
「書けない著者」なんて、まるで「運転できないドライバー」や「計算できない会計士」みたいだが、こうした「書けない著者」は一定数いる。
「学校の授業で作文ぐらいやったでしょ。しかも本を出せるぐらいの優秀な人なら、自分の考えを文章にまとめるぐらい楽勝でしょ」
そうお思いの方もいるかもしれない。
でも、「わかりやすく書く」「商品になる、お代をいただける文章を書く」「10万字を論理的に書く」という条件がつくと、話は違ってくる。稀代のカリスマ社長でも、天才的なマーケターであっても、こういった文章力を備えている保証はないのである。
「本を出せる実績」があり、しかも「文章も上手い人」となると、レア中のレア、ということで私たちブックライターに話が回ってくるわけだ。
■読者は著者の「筆跡」が欲しいわけじゃない
ポジショントークをさせてほしい。私は「そもそも本を著者が全て書く必要はない」と思っている。
著者が自分で書くことにこだわるあまり、時間がとれず、自分で納得いく文章が書けず、出版社に企画が通っているのに永遠と本が出ない。そうなれば、著者のメッセージを必要とする読者に、その言葉を届けられなくなる。それは著者にとっても、読者にとっても、不幸なことではないだろうか。
これが小説やエッセイであれば、読者も作家自身が紡ぐ生の言葉や筆使いを味わいたいだろう。気持ちはよくわかる。
しかし、ビジネス書や自己啓発本の読者は違う。それらを読む人が求めているのは、著者の経験から得られた気づきや学び、ノウハウであるはずだ。もっと言えば、その本を読んで自分の考え方や生活、人生が変わっていくことを期待している。
そこに著者が一字一句書いたという「筆跡」は重要ではないのである。
■ブックライター=バーテンダー説

多忙な著者に代わって、本の文章を書く。それがブックライターの仕事だ。
ただし、代わりに書くといっても、著者が言ってもいないことを「0→1」で創作することはない。
ブックライターの役割は、「バーテンダー」と例えるとわかりやすいかもしれない。
「寿司屋の修行に10年も費やすのはバカ!」
「マイホームなんて買うな!人生の足かせになる」
「手数料が5%を超える金融商品はゴミだ」
私がブックライティングを担当した本の見出しには、強烈なメッセージがたびたび登場する。
こういった主張を聞いて、
「あー、わかる!たしかに今の時代、10年も修行するのはもったいないよね」
「言われてみれば、マイホームを買ってから人生の選択肢が狭まったかも……」
と受け入れられる人は少数派。
どれもエッジが効きまくり、聞く人を激しく選ぶ。
例えるなら、アルコール度数の高いお酒のようなものだ。ホリエモンが代表的なように、ビジネス本の著者になるような人は、こういった尖ったメッセージを発することが多い。むしろ、尖ったメッセージだからこそ共感や議論を呼ぶ。しかし、こういったメッセージをストレートで“味わえる”のは限られた強者だけだろう。
では、この“度数の高いお酒”を多くの人に楽しんでもらうにはどうすればいいか。答えはシンプルで、適度に割って飲みやすくすることだ。
それを日々行っているのがバーテンダーである。
度数の高いお酒にジュースやソーダを加え、風味や個性を引き立たせながら、お客さんが心地よく楽しめるカクテルやサワーに仕上げる。「甘くて口当たりのいいカクテルが飲みたい」「さっぱりとした爽やかな味がいい」といった、お客さんそれぞれのリクエストに応じて、味わいやバランスを調整する。
バーテンダーの腕前は、お酒のもつ本来の個性を損なわずに飲みやすさを引き出すところにある。
では、ブックライターの場合はどうだろうか。
エッジの効いたメッセージや専門的な主張を、噛み砕いた表現や補足説明を加え、より伝わりやすい形に整える。
「どんな人がターゲットか」「どんな表現なら理解してもらいやすいか」を想定し、読者の視点に立って文章を仕上げる。
著者の意図や主張をそのまま残しつつ、読者に心地よく届くよう、絶妙なバランスを保つのがブックライターの腕の見せどころである。
度数の高いお酒をジュースやソーダで割って飲みやすくするように、エッジの効いたメッセージを噛み砕いて、抵抗なく受け入れられるようにする。この作業こそブックライターが日頃やっている「文章化」だ。
決して、著者が考えてもいないことをでっち上げたり、読者を騙そうとしているわけではない。
そんな役割を「裏で暗躍するゴーストライター」と批判するのは、少々買いかぶりすぎというものだ。
■「読者を欺く」のがゴーストライター
ただし、ゴーストライター批判を受けても仕方ないパターンは存在する。
それは、著者のエッセンスがカケラも含まれず、ブックライターが内容をゼロから創作してしまっている作品だ。表紙に著者の名前こそ大きく掲げられているが、蓋を開けて見れば、どこかのベストセラー本で見たような内容ばかり。いわば「名義貸し」のような状態だ。
こういった看板に偽り“あり”の本が、批判を招くのは当然である。
実は、ブックライターの有無は簡単にわかる。本の「奥付」と呼ばれる最終ページに書いてあるからだ。そこには映画のクレジットのように制作スタッフの名前が記載されている。「編集協力」や「構成」として名前が載っているのがブックライターだ。あるいは、あとがきの謝辞に登場したり、目次に名前が載るパターンもある。
一方で、第三者がライティングしているのにかかわらず、著者以外の名前が明記されていない本も存在する。これでは、読者は「ライティングをしたのが著者本人かブックライターか」を知るすべがない。
それはまるで、SNSの広告案件を「#PR」ナシで投稿する、いわゆるステマのようなものだと思う。これまた読者を欺いていると言われても反論は難しく、ゴーストライター批判を出ても仕方がない。
あるいは「俺は〇〇のゴーストだ!」といった感じで、著者そっちのけで自分の存在をアピールする業界人もいる。ただ、ブックライターはバーテンダーのようなものだと書いたが、あくまでお酒(=著者の考え)を届けるための媒介者。
ゴーストライターなのであれば、幽霊役に徹し、その事実は公言せず、それこそ墓場まで持っていくべきだ。そんなものが存在するかしらないが、それが「ゴーストライターの矜持」だろう。
いずれにせよ、こうした行動は「ブックライター=悪」という誤解を助長し、真っ当にやっているブックライターのイメージに泥を塗っている。
■あなたの「大切な一冊」もブックライターが書いている
結局、ブックライターとは文章のプロであり、著者のメッセージを整理し、わかりやすく伝えることを使命にしている。
そして「ああでもない、こうでもない」と試行錯誤しながら日々文章と向き合っている。
それは、著者の思いを一人でも多くの人に届けたいという思いが、そうさせるのだ。ブックライターは読者に寄り添う存在であり、決して読者を欺こうなどとは考えていない。ゴーストライターとは似て非なるものだ、と声を大にして言いたい。
矢沢永吉さんの『成りあがり』は糸井重里さんが聞き書きで執筆した一冊だ。養老孟司さんの『バカの壁』も、担当編集者が聞き書き形式でまとめ上げた。

こうした大ベストセラーの陰にも、ブックライターの存在がある。
あなたの本棚には、実はブックライターが文章を書いている作品が並んでいるかもしれない。そして、ゴーストライター批判をしている人にとっての「影響を受けた一冊」や「手放せない愛読書」がそうである可能性も十分にあるのだ。