11月17日に一人のプロレスラーがレスラー人生の幕を下ろす。彼の名前は齋藤彰俊。
■ジュニアオリンピックを制した水泳選手から格闘技の道へ

齋藤彰俊は、水泳のジュニアオリンピックで優勝経験があるアスリートであった。中学校時代は全国大会で3位に輝き、高校時代はインターハイで優勝。大学進学後はインカレ、国体、日本選手権を制覇するほどの選手だった。ユニバーシアード、パンパシフィックの日本代表に選ばれたこともある。
そんな齋藤は幼い頃からのプロレスファン。TV画面の向こうに映るプロレスラーに夢中であった。特に大好きだったのは、当時維新軍として藤波辰巳(現・藤波辰爾)と抗争し、全日本プロレスに乗り込んでいた長州力である。
「TVでファンになりましたけど、意外と影響受けたのは『1・2の三四郎』(※1)という漫画でしたね。のめり込んで読んでました。水泳選手時代も『プロレスやりたいなあ』とずっと思っていました」
そんな齋藤青年がプロレス入りしたのは、水泳選手を引退した1989年のことだった。旗揚げしたばかりのFMW(※2)で空手の試合を行ったことがきっかけだった。その後、1990年剛竜馬(※3)が主宰するパイオニア戦志でプロレスラーとしてデビューを果たす。1991年にはW★INGの旗揚げに参加し、空手を武器にしたレスラーとしてリングに上っていた。
「デビューした頃は誠心会館(※4)と提携していた塾の道場生でした。空手の大会に出るときは誠心会館の一人として出場させていただきましたね。あの頃のW★INGは、デスマッチとかをやる団体じゃなくて格闘技志向だったんです。当時は空手以外にも柔道やサブミッションアーツ出身の人がいて、格闘技の合宿とかしていました。
でも旗揚げ戦やってみると(デスマッチファイターの)ミスター・ポーゴ(※5)さんとかTNTがいたんで『これは異種格闘技なんだ』と思っていました。
合宿では『これからコカ・コーラをスポンサーにしてマイク・タイソンを呼ぶぞ』なんて聞いていましたけど、タイソンもコカ・コーラも来ませんでした(笑)」
W★INGは旗揚げ早々に分裂騒動が勃発、資金難もあり混乱状態に陥った。齋藤はW★INGを離脱した後、分裂したW★INGの格闘技路線が始まるのを待つ日々が続いた。
「こう話すと苦しかったように聞こえるかもしれませんが、当時はワクワク感のほうが強かったです。夢だったプロレスラーになれて、自分が夢に向かって歩いているという実感を得ていましたし、すごく希望を持っていたのでつらいとは思ってませんでした」
そして1992年、齋藤彰俊に転機が訪れる。
※1:『週刊少年マガジン』(講談社)で連載されていた人気漫画。スポーツをベースにした展開となっており、ラグビーや柔道、プロレスの試合を描いている。
※2:大仁田厚が旗揚げしたプロレス団体。電流爆破デスマッチで人気を博したが、旗揚げ当時は格闘技志向の団体であった。
※3:「プロレスバカ」の異名を持つプロレスラー。国際プロレス、新日本プロレスで活躍後、第一次UWFへと移籍。退団後は全日本プロレスにも参戦した。
※4:空手道場・国際空手拳法連盟所属の空手道場。館長の青柳政司は齋藤彰俊と一緒に平成維震軍に参加していた。
※5:新日本プロレスでデビューしたプロレスラー。大仁田厚のライバルとして活躍したデスマッチファイターである、現在3代目がレスラーとして活動している。
■プロレスラーとしての基礎と心構えを教わった平成維震軍時代

誠心会館と新日本プロレスとの対抗戦が勃発したのだ。きっかけは些細な出来事からだった。
さかのぼること1991年12月8日、誠心会館自主興行が開催されていた後楽園ホール大会の控室でのこと。誠心会館館長・青柳政司の付き人が、控室のドアを"バーン"と強めに閉めたことからだった。控室にいた小林邦昭が「オイ、もっとていねいに閉めろ!」と注意すると、聞き取れなかった付き人が「なんですか?」と聞き返したのを、小林は口答えしたととらえ殴りかかってしまうのだ。
後日、小林は誠心会館の道場生から襲撃を受けてしまい、対抗戦がスタートした。
「自分がその件を知ったのは小林(邦明)さんに襲撃された人からの電話でした。『こんな理由で理不尽に殴られた』と相談を受けていたんです。
かくして齋藤は1992年1月4日の新日本プロレス東京ドーム大会に、誠心会館の門下生として仲間と乗り込み、新日本プロレスに宣戦布告。小林邦昭、小原道由(※6)、越中詩郎に勝利した。その後、青柳、小林、越中詩郎、木村健悟と反選手会同盟を結成し、新日本プロレスにレギュラー参戦を果たす。
そして子供の頃からの憧れだった長州力とリング上で対峙したのである。その時の気持ちは。
「本当はリング上で向かい合うのではなく、横にいたかったですね。当時の長州さんは怖かったです。忘れもしないんですけど、長州さんは素手で空手着を破ったことがあるんです。空手着って柔道着ほどではないけど、すごく丈夫にできていて簡単にやぶれるような代物じゃないんです。それなのに、素手でビリビリって破いたのを見たときは『危ないな』と思いましたよ(笑)」
反選手会同盟は、戦いの場を天龍源一郎率いるW.A.Rにまで広げた。グレート・カブキと小原道由が加入し、平成維震軍と名前を変えてからも今まで以上に暴れまわった。
齋藤はカブキ、小林邦昭、越中詩郎から刺激を受け、プロレスラーとして一回り大きくなった。カブキからは、レスラーとしての基本である受け身からテクニックまでを教わり、小林からは身体を大きくするための栄養のとり方を教わった。越中からはプロレスラーとしての心構えを教わったという。
後に平成維震軍に加入してきた天龍源一郎、カブキからは酒の「スタイル」も叩き込まれた。
「ホテルの部屋で横になっていると、背後に天龍さんがいるんです。当時もホテルって自動で鍵がかかるはずなんですけど、なぜかいる(笑)。『おい、飲みに行くぞ』と呼ばれて、アイスペールに(焼酎やウイスキーを)注ぎ込んで『飲め』って言われるわけです。当時の『飲め』は一気ですよ。それを潰れるまで繰り返されるんです。
後、カブキさんから『テキサススタイル』という飲み方をやらされました。それはウイスキーそれもジャックダニエルのストレートとビールを交互に飲むスタイルです。
どっちも今ならアルハラ(アルコール・ハラスメント)でアウトですけど、当時は平気でしたね。僕も『プロレスラーは一般常識を超えたことができないダメだ』という世代だったんで、やっちゃうんですよ」
浴びるように酒を飲み、常人ではクリアできない量の練習をこなす。そんな「規格外の化け物」というのが、齋藤が子どもの頃の世間のプロレスラー像だった。
※6:新日本プロレスで活躍した元プロレスラー。平成維震軍解散後は、「犬軍団」として後藤達俊と共闘し、IWGPタッグ王者となった。
※7:新日本プロレスに所属したプロレスラー。キャリアの殆どをヒールとして過ごしており、新日本プロレス退団後は様々団体のリングで活動してきた。
※8:現在はAKIRAの名前で活躍中。アキラノガミの名前で俳優としても活動しており、浅井企画に所属している。
■運命に導かれるように参戦を直訴したプロレスリング・ノア

新日本プロレスでの刺激的な日々を過ごしていた齋藤だが、「これはちょっと自分が思い描いていたプロレスラーというものとは違う」と感じていた。プロレスラーは自分のためにとか、「たとえ上司だろうが何だろうが、正しいと思ったことを…」という姿に憧れを持っていたが、「今の自分は違う」と見えてしまったのだ。
そこで齋藤は新日本プロレスを辞めることを選ぶ。それから2年間、リングで戦うことなく、一般の人と変わらぬ暮らししていた。
プロレスから離れて生活していた齋藤に、青柳政司がある話をしてきた。
「齋藤、NOAHって団体ができるらしいからいかないか」
聞いた瞬間、NOAHへいきたいと思ったそうだ。
「NOAHには、三沢光晴さん、小橋建太さん、田上明さんと当時の二大メジャーの一つである全日本プロレスでトップを張っている選手がいるわけです。自分は、平成維震軍で新日本プロレスのリングに上った。NOAHへ行けば、一つのメジャーである全日本も体感できるじゃないですか」
そんな折、三沢が東海ラジオに来ることがあった。ここに齋藤も駆けつけ「NOAHに上がりたい」と直談判したのだ。その後、NOAHにテスト参戦を許可され、見事クリア。まずはフリーとしてNOAHのリングに上がることになった。
「フリーであっても俺はNOAHの一員」そんな気概をもってNOAHで戦っていた。所属選手だけが着るジャージーを身にまとい、プロレスリングZERO-ONEの旗揚げ戦では、三沢光晴のセコンドにもついていた。
「新日本プロレスじゃない。ZERO-ONEでもない。俺はNOAHなんだ」という意思をファンに伝えるために。そして2006年1月1日付で正式にNOAHの所属選手となる。テスト参戦から約6年をかけてNOAHの一員として認められた。
齋藤にNOAHと新日本プロレスとの違いを聞いてみるとレスラーにしかわからない答えが返ってきた。
「自分の感覚でいいますと、新日本プロレスは攻撃的なんです。リング上で相手を倒すためにやっている感じです。リングを降りると派閥争いもすごい。例えばですね、ベンツに乗っているのは〇〇派で、キャデラックに乗っているのは✗✗派って感じで。控室もすごい殺気立っていましたね。
NOAHは海で言うと”凪”です。表向きは平坦で波風が立たない。しかし、海中の潮の流れは激しいです。その違いがありますね。リング上でいうと受けの強さが違いました。
『俺はお前の攻撃を全部受けるよ』と三沢さんに言われ、『これで倒せるだろう』と攻撃しても、三沢さんは『もっとこいよ』という感じでした。自分が持っている武器を全部使って攻撃しても、平然としているんです。その時はすごい絶望感を覚えましたね。攻撃されるときと違う恐怖でした」
手持ちの武器が通用しない。「何をしたら倒せるのかわからない」という恐ろしさを齋藤はNOAHで味わった。
■15年間背負い続けた「三沢光晴最後の対戦相手」

2009年6月13日は、齋藤にとって忘れられない日だ。そのNOAHの象徴である三沢が試合中の事故で亡くなった。齋藤は最後の対戦相手だった。試合中に齋藤のバックドロップを受けた三沢は、そのまま動けなくなり、搬送された病院で息を引き取った。「頸髄離断」だった。
齋藤は、自分を責めた。三沢が眠る病室で朝まで過ごしながら、「自ら命を絶つしかない」とまで思いつめた。しかし、三沢が亡くなった悲しみ、つらさ、怒りをファンはどこにぶつけたらいいのだろう。そう考えた齋藤は「自分が受け止めるしかない」と決意した。
齋藤の決意を後押ししたのは事故から2ヶ月後に届いた“三沢からの手紙”であった。手紙の送り主は三沢の親友。三沢の友人は、三沢の生前に「もしも自分がリングの上で事故にあったら、その時の対戦相手に伝えてほしい」とメッセージを託されていたのだ。
「一言一句間違えないように、とよく思い出しながら書いたので、時間がかかってしまいました」とメモ書きが添えていた。
手紙には「重荷を背負わせて、本当にごめん」と事故を予見していたような文が書いてあったという。そして「プロレスを続けてほしい。つらいかもしれないが、絶対に続けてほしい」と綴られていた。
「その手紙をもらったときは、辞めようという気持ちはなかったんですけど、読んだ後に『どう答えをだすのか』というのが15年くらいかかったかなという感じです」す。
事故後、齋藤の元に、三沢のファンから「お前が三沢を殺した」「三沢を返せ」といった言葉や、匿名を名乗る人から誹謗中傷を受けた。齋藤は逃げることなく、『申し訳ございません』と謝罪をし、『今、自分の中で誓ったこと、やり残したことがあるのでもう少しリングに上がらせてください』と返事をしているそうだ。
「自分は、三沢さんが亡くなったことへの批判はすべて受け止めますと宣言しているので、直接届いたものに関しては『三沢さんのファンではないな』と思う方へも返信しています。それは自分で約束したことなので嘘をつきたくないからです。自分の生き方には正直でいたいのでやらせてもらっています」
常人にはマネできない。三沢が亡くなったのは事故であり、齋藤一人が責任を背負うことではないと筆者は感じている。齋藤を非難しても三沢は帰ってこないのだ。それでも齋藤は、相手から送られた言葉を受け止めて手紙を返し続けている。
自分のバックドロップによって三沢が亡くなった。その現実は変えられないと考え、自分が亡くなって天に行くまでそれを受け止める覚悟だ。「プロレスを引退してもこれは変わりません」と齋藤は言う。
最近、齋藤は亡き三沢の存在を感じるような不思議な体験をしたという。
「今年の3月に初めてシングルのベルトを巻いたんです。会場が靖国神社だったんですけど、リングに上ったら突然風がピュッと吹いたんです。後から思えば三沢さんが後押ししてくれたのかなって思います」
齋藤はレスラー生活33年目。タイトルを奪取した日は3月31日。世界ヘビー級第33代チャンピオン。すべて三沢の「三」が揃っている。こじつけかもしれないが、何かの力が働いたのかもしれない。
その齋藤に、生前三沢と飲みに行った時の思い出を聞いてみた。
「三沢さんは人に、『ああしろ、こうしろ』とは言わない人でした。だからといって職人気質に『俺の背中を見ろ』という人でもなかったです。とにかく佇まいが自然なんです。その姿を見て勉強させてもらう感じです。後は自分が緑のコスチュームにしたのはあるお坊さんから『緑は守護色としていいぞ』と言われたかららしく、そんなことを話してくれたのも記憶に残っています」
三沢との思い出を語る齋藤は嬉しそうに見えた。
■タイトルマッチ後に突然引退発表をした真意とは
2024年11月17日にプロレスラー・齋藤彰俊は最後の日を迎える。今年7月13日の日本武道館大会で潮崎豪(※9)に敗れると、引退を決断した。世界ヘビー級選手権3回目の防衛戦であった。
「試合が終わった後、やりきったのかなっていうか、約束守れたのかなとか思いました。三沢さんからの手紙に『糧にしてほしい』と書いてあったのですが、言葉って難しいですよね。『糧にしろ』というのは、このことを自分にプラスにしていくっていう感じだと思うんですけど、自分の中ではちょっと違っていて、何かを苦しみながら、悩みながら何かを掴んでいくことかなと。
それで自分なりに答えが見つかったから、(プロレスから)卒業するときが来たのだと思ったので決めました。でも正解かどうかはわかりません。自分が天に召されて三沢社長にお会いしたときに『お前正解だよ』と言われたら、その通りだと思っています。
ただ、『糧にしてほしい』という言葉は年々捉え方が変わってきています。言葉は一つなんだけれども、自分で考え続けていって『起承転結』の『結』の部分にきた。それで『引退しよう』と瞬間的に決めたんです。
これも後付けですけど、振り返ってみると自分の発言とか行動を見ると辻褄が合うんです」
引退会見でも、あの日同じリングに立っていた潮崎豪と日本武道館でタイトルマッチができたこと。そんな素晴らしい舞台で「伝えるべきことを伝えられた」と語った齋藤。
引退が決まった後にも気にかけていたのはNOAHの仲間のことだった。引退会見でも仲間へのメッセージを熱く語っていたし、齋藤のXからもその心意気が感じられる。齋藤はよく「#伝えなければならない事」「 #やらなければならない事」というハッシュタグをつけてポストする。それは彼が、同じユニットである「TEAM NOAH」のメンバーやNOAHのプロレスラーに、あの地で心に誓ったこと、約束したことを自分なりに伝えてきたことである。
※9:プロレスリング・ノア所属のプロレスラー。ノアのエースとして期待され、GHCヘビー・GHCタッグ・三冠ヘビー級・世界タッグ・世界ヘビーと様々なベルトを戴冠。
■「生をまっとうしてほしい」つらい時代を生きる人に伝えたいこと
リング上で急逝した「三沢光晴最後の対戦相手」という過酷な運命を背負ってきた齋藤。「自分がすべてを受け止める」と決意して、心無い誹謗中傷にも耐えてきた。「死神」という有り難くない異名をつけられたこともある。
引退試合の大会タイトルは『Deathtiny』。「死(神)」と「運命」をかけ合わせた造語だ。「死神の宿命、死神の運命っていう感じで自分が進むべきこと、やるべきこと、という意味を込めています」と齋藤は説明する。壮絶な体験をしながらも、プロレスのリングに立ち続けた齋藤に氷河期世代へメッセージをお願いしてみると、「ああいう事故を起こしてしまった自分が言うと、どこまで説得力があるかわからないんですけど…」と前置きしてこう語ってくれた。
「人生にはいろんなことがあります。例えば車でも、いきなり自分のお子さんをとか、出会い頭でとか、思ってもない事故が起こることもある。本当にどんなことが起きるかわからない。『生きる』という部分では、どんなに生きたくても心臓が止まってしまう人がいる。反対に嫌なことや、つらいことに死にたいと思っていても心臓は動いている。とにかく人生は1回なんだよって伝えたい。その中で『自分に何ができるか』じゃなく、『自分が何をやりたいか』を一番に考えてもらいたいなとは思ってます。
今はSNSで誹謗中傷されたりなどで、つらい人もいるでしょう。でも、自分が話を聞くことでそういう方のつらさが解消されるなら聞いてあげたい。つらい人のプラスになることをする、これも自分の宿命、運命だと思っています。皆さんには『生をまっとうしてほしい』です。これが伝えたいことです」
齋藤彰俊は、最後の最後まで「伝えなければならない事」「 やらなければならない事」を伝え抜くだろう。その言葉を我々が受け止めて、行動していくことが次の「運命」を決めるのかもしれない。

取材・文:篁五郎