森羅万象をよく観察し、深く思考する。新しい気づきを得たとき、日々の生活はより面白くなる――。
第34回 孤独が好きになる理由
【「孤独だ」と人からいわれる?】
孤独が好きか、というと、べつに好きというわけではない。ただ、嫌いでもない。好きか嫌いかなんて考えたことがないし、そもそも「孤独」というものを感じたことがない。どういった状態が孤独なのかも、よくわからない。一人でいると孤独なのだろうか。話す相手がいないこと?
「孤独死」という言葉があるが、単に一人で生活していたら、死んでも誰も気づかない、というだけのことでは? 死んだ本人が孤独だったかどうかなんて、誰が判別するのだろう? 一人で楽しい人生を満喫していたかもしれない。孤独死だったと哀れに思われるなんて不本意というか、余計なお世話というか、ある意味で、屈辱的だし、名誉毀損ではないだろうか? まあ、死んだらべつになにも関係はないから、どう思われてもかまわん、というところが本当だろう。
生きている人の場合も、たいていは他者が「あいつは孤独だ」と指摘する場合が多い。
僕は、そんなふうには感じない。仲間がいても、いなくても、得でも損でもないし、有利でも不利でもない、と正直考えている。どちらかというと、仲間というのは面倒くさいものだ、とマイナスに評価する方が多い。仲間がいるために得をしたり、救われたことはほとんどなく、仲間がいるから、時間を取られたり、余計な役目が回ってきたりと、むしろ不利益の方が多い。トータルでいうと、得と損は3:7くらいだろう。
まあ、どちらでも良い。仲間が好きだという人はいるみたいだし、仲間がいるだけで満足したり、安心できる人も、どうやらいるみたいだ。そういう人に文句をいうつもりはない。
僕の場合、楽しみのほとんどは自分一人で完結するものなので、一人でいる時間をとても大切にしている。一人でいるときが一番楽しい。もし、一人でいる状態を孤独というならば、孤独が楽しいことになる。それから、「寂しい」状況も大好きなので、寂しさを感じる時間も大事だと思っている。寂しいな、なんて感じるのは、綺麗な心というか、侘び寂びの感覚に近い。寂しいときに素晴らしい発想が生まれることも多い。たとえば、素敵な芸術は、孤独や寂しさから生まれるだろう。そういう体験は貴重だし、このうえない思い出にもなる。
【孤独を恐れる人は大勢の中にいる】
実は、ひとりぼっちの人が孤独なのではない。本当に孤独なのは、大勢の仲間の中にぽつんといる人だ。たとえるなら、田舎や山の中の一軒家ではなく、大勢が暮らしているマンションなのに、隣に誰が住んでいるかわからない一室みたいな存在。距離的には多数の他者に囲まれているのに、周りのみんなが自分にとっては明らかに無関係だ、と感じる。
まず、孤独を感じるのは、この「親しさ」への幻想があるためで、いうならば、「他者への期待」が根元となる。「親しい他者」の虚像を信じている。そういうものが存在すると何故か思い込んでいる。それは、神を信じるようなものであり、根拠はまったくない。しかし、子供の頃から見せられてきた数々のフィクション、ドラマ、映画、漫画、小説などに描かれているものだから、絶対にこの世に存在すると信じている。神や超能力などの超自然現象と同じくファンタジィでありSFなのだが、周囲の誰もが信じているように見えるし、そう振る舞うから、いつまでも期待してしまう。自分の前にも「親しさ」がやってくる、と待っているのだ。つまり、この状態が「孤独」というものの正体である。
仲間と一緒にいて安心できる人は、一人でいる人を見て、「寂しそうだな」と感じるし、一方、一人で楽しんでいる人は、仲間と一緒にいる人を見て、「つき合わされて可哀想だな」と感じる。いずれの立場にいても、自身の境遇が良いと感じる人は多い。
そういった個々の立場、それぞれの感覚を無視して、一人だと孤独だ、と決めつける場合があって、特にマスコミなどは、そういった勘違いをしやすい。勘違いではなく、なにかスポンサを配慮して故意にイメージを捏造している可能性もある。マスコミというのは、このような意図的な捏造を長年にわたって続けて、それを自分たちでも信じてしまうようだ。
【一人でいることは、自由の象徴】
少数派ではあるけれど、孤独が大好きでたまらない、という人たちがたしかにいる。僕もその一人だ。子供の頃から一人でなにかをする時間が好きだった。大好きなことに没頭できる。誰にも邪魔をされたくない時間なのだ。
友達と遊ぶことが嫌いだったわけではない。それは友達による。
僕はすぐに飽きてしまう性格だったから、すぐに別のことをしたくなる。この遊びはもう充分だから違うことで遊ぼう。その話はもういいよ、別の話題にしよう、と思ってしまう。少し一緒に遊んだら、もう別れたくなる。「じゃあね」と勝手に去ることが許される相手なら良いけれど、なかなかそうはいかない。特に大勢になるほど、自分勝手にできない不自由さで苦しくなる。友達というのは面倒なものなのだ。
一人でいることは、自由の象徴でもあった。
大人になっても、この生き方のままだった。研究者になったから、素敵な孤独の時間を増やすことができた。何時間でも一人でいられる。考え続けたり、計算したり、ずっと邪魔をされない時間を過ごすことができる。こんな幸せがあるのか、と思えた。もう親の目を気にしなくても良い。結婚をしたけれど、「仕事だから」といえば良い。
これは、人間関係に限ったことではない。たとえば、日々の生活で自身のためにしなければならないことの多くが退屈で、面倒で、できればスキップしたいと思う。風呂に入ったり、着替えをしたり、トイレにいったり、食事をしたり、寝たりする必要があるし、決まった時間にしなければならない儀式が多々ある。意味のない儀式があると、本当に滅入ってしまう。ようするに、生きていくことが面倒なのだ。
そういうことをせず、今興味があるものに没頭していたい、と考えてしまう。だが、それでは死んでしまうかもしれないから、しかたなく、いやいや妥協し、騙し騙し生きるしかない。不自由このうえないのである。
歳を取って、だんだんそういった苛立ちが減少した。あまり急いで考えなくても良いのではないか、と諦めるようになった。自分の欲求を聞き流せるようになったのである。だから、老齢のこの頃になってようやく、落ち着いてきた。まあ、この程度で良いではないか、僕の人生は、と今は思えるようになった。
【孤独を愛する人生】
僕はスマホを持ち歩かない。模型やマイコンの制御に使っているだけで、電話としては使わない。SNSもしない。普段は書斎の書棚に置いたまま。緊急時に使用できるように、出かけるときにはバッグに入れるけれど、使ったことは一度もない。
庭仕事をしているときも携帯していないから、家族も僕を見失っているはず。僕も家族がどこにいるのか知らない。犬だけが、各自がどこにいるかを知っている。
森の中で一人で作業をしていると、孤独の楽しさをしみじみと感じる。誰も見ていないし、誰とも関係のないことを自分は今している、という充実感。つまり、自分は自分だけのために生きていることが確認できる。
ドライブが好きなのも、クルマという空間に一人だけでいる感覚のためだろう。ラジコン飛行機を飛ばしているときも、庭園鉄道を運転しているときも、工作室で旋盤を回しているときも、自分だけがここにいる、という感覚に浸れる。これが本当に楽しい。
ただ、作家として仕事を少しだけしている関係で、この文章のように他者に向けて自分を曝け出す行為で対価を得ている。これが少々の不満でもある。引退して、このような発信を止めることができれば、もっと純粋な孤独の時間に満たされるだろう。
文:森博嗣