子供の頃から雑誌が好きで、編集者・ライターとして数々の雑誌の現場を見てきた新保信長さんが、昭和~平成のさまざまな雑誌について、個人的体験と時代の変遷を絡めて綴る連載エッセイ。一世を風靡した名雑誌から、「こんな雑誌があったのか!?」というユニーク雑誌まで、雑誌というメディアの面白さをたっぷりお届け!「体験的雑誌クロニクル」【5冊目】「『広告批評』袋とじの衝撃」をどうぞ。





【5冊目】『広告批評』袋とじの衝撃

 



 きっかけは新聞記事だった。ウチの実家は食堂で、新聞はスポーツ紙を含め何紙も購読していたが、店ではなく住居スペース用に取っていたのは朝日新聞だったので、たぶん朝日の記事だと思う。いつものようにテレビ欄をチェックしたあと、後ろからペランペランとめくっていくと、ある雑誌に関する記事が目に留まった。



  雑誌の名は『広告批評』(マドラ出版)。紹介されていたのは、1982年6月号の特集「とにかく死ぬのヤだもんね。」だった。当時の名だたるクリエイターたちが試作したオリジナル広告を中心にした反戦・非戦特集だ。



  記事の詳細は覚えてないが、やる気なさそうにしゃがんで缶コーヒーか何かを飲む男の写真に、特集タイトルにもなった〈とにかく死ぬのヤだもんね。〉というコピーをかぶせた広告ポスター風のビジュアルが図版として掲載されていた気がする。



  いや、もしかしたら自衛隊のような装備をまとって銃を背負った男二人が“こちらへどうぞ”的なポーズを決めた写真に〈まず、総理から前線へ。〉とのコピーを付けたやつだったかもしれない。そのへん記憶が曖昧だが、いずれにしても高校生の私には新鮮で、「こんな雑誌があるのか!」「これは買わねば!」と、すぐに近所の書店に走ったのだった。



 今はなき大阪駅前商店街の旭屋書店。

曽根崎警察署の並びにあった本店ではなく、現在のヒルトンホテルのあたりにあった商店街の一角の店舗で、調べたらもともとはそこが本店だったらしい。その店で420円を払って手に入れた『広告批評』1982年6月号は、想像以上に刺激的だった。



  まず巻頭の反戦・非戦広告が、やっぱり目を引く。〈とにかく死ぬのヤだもんね。〉〈まず、総理から前線へ。〉はもちろん、〈誰のために死ぬのか、軍隊はいつも軍隊のためにある。〉というフレーズでページを埋めたもの、十字架が並ぶ墓地のようなビジュアルに〈戦争は、あなたが人を殺すこと。〉というコピーを添えたものなど、表現は静かながら腹の奥底にずしりと響くパンチ力がある。







 



 ビジュアルそのものにはお金がかかっていないので、広告ポスターとしてはあくまでも“試作”にとどまるが、コピーは今の時代にも――いや、ウクライナやガザの状況、医療や福祉を削って軍拡をめざす自民政権の姿を鑑みれば、今の時代にこそ有効かもしれない。



 



 しかも、この号にはさらなる衝撃が待っていた。「戦争の“顔”」と題されたページが袋とじ(正確にはシール留め)になっていて、扉ページに次のような断り書きがある。



〈気の弱い方は封を切らないで下さい。

でも、できれば被写体になった人たちの“勇気”を直視してほしいと思います。〉



 そう言われたら、見ないわけにはいかないだろう。が、シールを切ってページを開いた私は、思わず目を背けてしまった。そこには戦場で顔面をひどく損傷した人々の写真が、1ページに1枚ずつ掲載されていた。ある者は両目と鼻を失い、ある者はもぎ取られた下あごに上肢の肉を移植された状態。顔の中心部をもぎ取られ、横顔が「く」の字のようになってしまった者もいる。「グロテスク」という言葉を使うのは被写体の人々に失礼ではあるが、ほかの言葉がすぐには見つからない。



 それらの写真は第一次世界大戦後のベルリンに開設されたワイマール共和国・反戦博物館展示物資料より転載されたもので、学習院大学教授(当時)の岩淵達治氏の解説によれば〈恐らく反戦の目的でとられたのではなく、治療記録としてとられたもの〉らしい。しかし、〈戦争はカッコいいものではなく、気持ち悪いものである。(中略)「気持ち悪い」と思うところにこそまだ反戦の訴えの届く余地が残されているのである〉と岩淵氏が言うとおり、これは確かに反戦広告として有効に違いない(袋とじされていたものをウェブに公開するのはどうかと思うので図版は載せない)。



 同号には前年にセカンド(ラスト)アルバム『死ぬのは嫌だ、恐い。戦争反対!』をリリースしたスネークマンショーの桑原茂一のインタビューも掲載されていた。

スネークマンショーは桑原茂一、小林克也、伊武雅刀によるコントユニット(?)で、YMOのアルバム『増殖』に参加したことで注目され、ファーストアルバム『スネークマン・ショー』(通称「急いで口で吸え」)で人気爆発。私もご多分に漏れずハマっていたので、このインタビューも「おっ!」という感じだった。



 これは面白い雑誌を見つけた、と思った。それから毎号欠かさず買うようになり、バックナンバーも少しずつ買い集めた(当時はこうした雑誌のバックナンバーを常備している書店がそこかしこにあった)。創刊号(1979年5月号。ただし4月号が創刊準備ゼロ号として発行されている)のほか、いくつかの号は品切れだったが、在庫のある分はコンプリート。大学進学で東京に来てからも買い続けた。



 印象深い特集はいくつもある。「戦争中の宣伝」(1980年8月号)、「続戦争中の宣伝」(1981年8月号)、「またまた、戦争中の宣伝」(1982年8月号)と、終戦記念日を前にした8月号では戦争宣伝特集を連発。詩人・茨木のり子の詩を軸にした「自分の感受性くらい自分で守れ」(1980年2月号)も挑発的だった。



「タモリとはなんぞや」(1981年6月号)では、まだ『笑っていいとも!』が始まる前のタモリを特集した。『滑稽新聞』などで知られる明治・大正期の風刺と反骨のジャーナリスト・宮武外骨を知ったのも、この雑誌の特集「わしが宮武外骨だ!」(1984年8月号)だった。

巻頭は赤瀬川原平による宮武外骨インタビュー。もちろん赤瀬川の自作自演である。



「キリストはコピーライターだった?」(1982年10月号)も目からウロコの特集だった。ブルース・バートンという広告マンが1924年に出版した本をベースに、広告の天才としてのキリストに光を当てる。〈イエスは広告の本質がニュースにあると考えていた〉〈イエスはサービスの中身を説教ではなく行動で語った〉といった見出しだけでもそそられる。コピーライターがイエスの言葉に学ぶべき点として挙げられる〈圧縮せよ〉〈シンプルであれ〉〈誠実さを示せ〉〈繰り返せ〉は、それこそ現代の選挙運動にも適用できそうだ。



 



 1986年のチェルノブイリ原発事故を受けて、日本の原発広告を検証する「明るい明日は原発から」(1987年6月号)も見どころたっぷり。〈この子たちの未来のために。〉〈いまや、原子力発電もクルマ、カメラなどと並んで世界に誇れる技術です。〉〈このスイカも3分の1は原子力で冷やしたんだね〉といったキャッチコピーは当時から胡散臭さ満点だったが、現実に福島原発事故が起こった今見るとさらに白々しい。







 宮崎勤事件でオタクバッシングが起きたときには、「がんばれ、おたく」(1989年11月号)という特集を組んだ。登場するのは、糸井重里、橋本治、岸田秀、森山塔、黒川創、岡崎京子、中森明夫、野々村文宏、浅田彰、いがらしみきお、市川準、稲増龍夫、えのきどいちろう、川本三郎、渋谷陽一、萩尾望都、村上知彦といった錚々たるメンツ。

昭和から平成への変わり目を31人の文化人へのアンケートで活写した「CMが消えた二日間」(1989年2月号)と同じく、時代の記録としても貴重だろう。



 もちろん、そうした時事ネタのみならず広告そのものの特集もあって、1984年10月号では「サントリーのここが嫌いだ!」とぶち上げた。田中裕子の「タコが言うのよ」(樹氷)、ランボーやガウディをイメージした贅沢な絵作り(ローヤル)、松田聖子の歌とペンギンのアニメ(缶ビール)など、当時の広告界で燦然と光り輝いていたサントリーにあえてケンカを売るスタイル。「おすぎとピーコのCM悪口大会 サントリー編」なんて記事もあるが、この号にもサントリーは素材を提供しているわけで、企業側にもこういうものを受け入れる余裕があったのだ。というか、結局この特集自体がサントリーの宣伝になっている。批評は、たとえ辛口だったとしても、単なる悪口とは違うのだ。



 連載「アド・トレンド」では、最新の広告を解説・批評する。毎年12月号は「広告ベストテン」企画を実施していた。広告が時代と文化の最先端にいた80年代、その広告を批評する雑誌もまた、時代と文化の先端を走っていたのである。



 そもそも誌面に登場する広告制作者、とりわけコピーライターがカリスマ的人気を誇った時代でもあった。前出〈とにかく死ぬのヤだもんね。〉のコピーを書いた糸井重里が、その筆頭。

今の糸井重里はツイッター(自称X)で“ズレたこと言う痛いおじさん”みたいになっているが、当時は〈不思議、大好き。〉〈おいしい生活〉などのコピーで脚光を浴びていた。1982年9月号では「糸井重里全仕事」なる特集が組まれるほど。それが売れたらしく、のちに別冊『糸井重里全仕事』も刊行された。同様に当時の人気クリエイターの別冊『仲畑貴志全仕事』『川崎徹全仕事』『土屋耕一全仕事』も出た。



 糸井重里が残念な感じになり、電通や博報堂などの広告代理店が中抜きマシンでしかないことが明らかになった今となっては恥ずかしい限りだが、当時の私はコピーライターという職業に憧れていた。その話は別項であらためて書くけれど、『広告批評』が自分の雑誌遍歴のなかで重要なポジションを占めていることは間違いない。



 90年代に入っても、『広告批評』は広告というフィルターを通して社会を見続けた。「広告戦争イラクVSアメリカ」(1990年10月号)、「『生活大国』って、ナンですか?」(1993年1月号)、「『ヘアヌード』シンドローム」(1994年10月号)など、時宜を得た特集を組む。「村上春樹への18の質問」(1993年2月号)、「細川護熙の広告的研究」(1994年2月号)、「それは手塚治虫から始まった」(1996年2月号)など、一人の人物にスポットを当てた特集もあった。





 2000年代に入ってからは、自分がテレビをほとんど見なくなったこともあり、広告(CM)への興味も薄れ、毎号ではなく気になる特集のときに買うぐらいになっていた。記事によっては首を傾げる部分がなくはない。それでも、多感な時期に大いに影響を受けた雑誌である。「一度は仕事をしてみたい!」という憧れのようなものは持ち続けていた。



 それが叶ったのが、2008年9月号の「マンガ☆新世紀」だ。浅野いにお、オノ・ナツメ、瀧波ユカリ、中村光、西島大介、福満しげゆき、安永知澄という注目株の若手漫画家7人のインタビューをメインとした特集で、マンガ解説者・南信長として原稿を書いた。



 題して「『破壊』から『再生』へ向かうゼロ年代作家の皮膚感覚」。前述の7人を含む20人超の作家を9ページにわたって紹介、解説した。頼まれもしないのにゼロ年代作家のマトリックス図まで作ったのは、同誌への思い入れの表出でもある。







 



 しかし、同誌は2009年4月号をもって30年の歴史に幕を閉じる。2008年5月の時点で休刊は発表されていた。なので、執筆依頼が来たときには「ギリギリ間に合った!」と喜びもひとしおだったが、好きだった雑誌がなくなるのはやはり寂しい。



 最終号は356ページの大ボリューム。著名人による対談や座談が6割以上を占めているが、むしろ注目すべきは「広告批評30周年記念広告」だ。60近くの有名企業が広告を出している。単に「お付き合いで出しました」的なものも多いが、同誌の30年の歩みに敬意を表したいくつかの広告にグッとくる。



 ソフトバンクの“お父さん犬”が〈広告批評はもう叱ってくれないぞ!〉と言えば、〈ちょっと褒められたり、たまに叱られたり。カップヌードルの広告は「批評」されて鍛えられました。ありがとう、広告批評。〉と日清食品が記す。朝日新聞が記事風に〈マス広告 万能時代に幕〉〈ネット台頭 業界変化を象徴〉といった見出しで休刊を報じたり、一六タルトで知られる一六本舗が「伊丹十三記念館」のおみやげである十三饅頭を逆さまにして〈(三十)年間ありがとう。〉とやったのも気が利いてる。







 



 そして表4(裏表紙)では、サントリーBOSSの〈宇宙人ジョーンズ〉が〈この惑星の広告批評に、もっと批評されたかった……。〉と、寂しげにたたずむ。まさに『広告批評』という誌名の面目躍如というか雑誌冥利に尽きるエンディング。創造性の欠片もない今のウェブ広告のありさまを考えれば、いいタイミングでの幕引きだったと言えるだろう。個人的にも「ありがとう」と言っておきたい。





文:新保信長

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