プライムセキュリティーサービスの住井正男さんは70代で今の警備の仕事に出合い、81歳の今も英語を活用しながら現場で活躍している。住井さんは「サラリーマン時代は残業、徹マンが当たり前で、正直いつ死んでもいいと思っていたし、こんなに長生きするなんて思わなかった。
でも警備の仕事を始めてからは、生に執着するようになったし、健康に気をつけるようにもなった」という――。
■70代ではじめた「警備員」の仕事
インバウンドの高まりによって、ますます“ホット”な注目を集めているのが日本の名所のひとつ「富士山」だ。人気の撮影スポットでは、外国人観光客の対応に追われる光景が報じられることもある。そのなかで富士山麓の街では「81歳の警備員」の活躍が話題になっているという。
山梨県富士吉田市の「本町二丁目交差点」。目の前に迫る富士山に向かって、一直線に伸びる通り沿いに商店街がつらなる。その昭和レトロな街並と巨大な富士山のコントラストが、絶景の撮影スポットだ。団体ツアーのバスが押し寄せ、多くの観光客が来訪する。
スマホで記念撮影する観光客を見守る警備員たち。その一人が、プライムセキュリティーサービスの住井正男さん(81)だ。
日焼けした顔はにこやかで、「Sorry」「Please」と丁寧に添えて、歩道にあふれる人たちを誘導する。横断歩道に立ち止まる人がいると、「Go back!」と素早く制止する。
手馴れた様子で警備にあたる住井さんが、この仕事を始めたのは70代になってからだという。
■「いつ死んでもいい」と思っていた商社時代
かつては三井物産で活躍する商社マンだった住井さん。定年後は妻と二人で山梨の山中湖村へ移住し、悠々自適で暮らしていたが、たまたま警備会社に勤める知人から「英語ができる人材が必要だ」「手伝ってほしい」と声をかけられた。
まるで無縁の仕事だったが、「やってみたら面白かった」という。気がつけば、80代の現役警備員として地元でも知られる存在になっていた。
「もともと老後はどう生きるかなんて考えもしなかった。サラリーマン時代は業績を上げるためにいくらでも残業したし、毎晩、取引先の接待や徹マンが続くような不健康な生活だった。自分が長生きするなんて思わなかったし、正直、いつ死んでもいいという刹那的な気持ちがあったから、定年後の人生設計なんてものはまったくなかったんですよ」(以下、住井さん)
■理解されない「葛藤」と反抗心
住井さんが三井物産へ入社したのは1966年。慶応大学経済学部4年生の時に英検1級を取得し、卒業後に商社マンになった。傍から見れば順風満帆なエリートコースだが、住井さんの中には葛藤があったという。
実は、祖父の住井辰男は戦前の旧三井物産で社長を務めた人で、父も三井物産の役員という家庭の長男として育った。同じ会社には行きたくなかったので、家族に黙って、興味があった船舶会社も受けていた。
だが、それを知った祖父の大反対を受け、最終的には三井物産へ入社することに決まる。
「社内ではどこへ行っても『住井』という名前がつきまとう。それが嫌でたまらず、入社してしばらくは反抗心を抱えていました。でも、それじゃあ毎日楽しくない。組織に縛られず好きなことをやるために、いっそ外部で『三井物産』の名刺をとことん利用してやろうと考えを改めてね」
■コカ・コーラ本社に「果糖ぶどう糖液糖」の認可を受けて…
入社6年目に食料本部へ配属され、食材の新規開拓に取り組むことになった。名刺一つで飛び込み営業を続けて人脈を広げていき、中国や香港、インドネシア、シンガポールなどの海外の工場視察にも飛び回った。
世の中は高度経済成長からバブル期へ向かって、勢いある時代。国内メーカーも研究開発費を惜しまず、輸入した食材の加工開発に協力してくれた。
当時、住井さんが取り組んだのが、今ではさまざまな清涼飲料水に使用されている「果糖ぶどう糖液糖」だ。でんぷんを原料に作られるもので、当時は砂糖に代わる低カロリーの甘味料として期待されていたという。
「そこで、果糖ぶどう糖液糖を大量生産する工場を国内につくって、製糖メーカーと10年がかりで製品化を実現しました。大きかったのは、果糖ぶどう糖液糖のサンプルをアトランタのコカ・コーラ本社に持ち込みプレゼンし認可を受けられたこと。
国内のコカ・コーラはじめ、他の大手飲料メーカーで、広く使われるようになっていきました」
この功績は大きく、住井さんは食料本部長まで昇進し、60歳で定年を迎えた。その際、子会社の社長にならないかと誘いの声が様々あったが、きっぱり断った。企業戦士として生きてきた三十数年はやりがいもあったが、「三井物産」の名刺にはもう何の未練もなかったという。
■小学校時代の夢は「園長さん」
2004年3月、定年を迎えたこの頃、父が他界し、年内に母も亡くなった。住井さんは両親が晩年を過ごした山中湖の別荘を整理するため、妻と一緒に出かけることに。自分は高血圧と糖尿病を抱え、妻も身体が弱かったので、しばらく夫婦でゆっくり過ごすのもいいだろう、良い機会だと思った。
そこに愛犬も連れて行くと、そこでまさか、愛犬に仲睦まじいパートナーとの出合いがあり、山梨の地で子犬が2匹、3匹と増えていった。
「僕はもともと生物が好きで、小学校のときの作文には『動物園か植物園の園長になりたい』と書いていた。山中湖へ行ったら、野鳥はたくさんいるし、犬もどんどん増えて、小さいころからの夢がかなったみたいだなぁと。愛犬も幸せそうに暮らしているし、よし、このまま山中湖へ移住して、晴耕雨読の生活をしようと決めたんです。あの頃も、自分がこんなに長生きするなんてまだ思っていなくて(笑)、老後の心配がなかったから、悠々自適に暮らそうと思いました」
別荘の近くに小さな畑を借りて、野菜づくりに励んだ。移住後も商社マン時代の知人から顧問などの仕事を頼まれ、週に2、3日は東京へ。
そんな日々を10年ほど過ごし、70代になった頃、地元の知り合いから声をかけられたのが警備の仕事だったという。
■大切なのは「見極め」と「伝え方」
彼が勤める警備会社で富士山5・6合目の警備をすることになった。その頃から外国人の登山者が増え始めていたが、入山料を徴収する係は英語を話せない。
悪気なく「Hey you, pay(おい、払え)」などと乱暴な声かけをするのを見かねて、英語が堪能な住井さんに「通訳になってくれないか」と話がきたのだ。
当初は臨時のアルバイトで、住井さんも小遣い稼ぎくらいの気持ちで引き受けた。それでも研修を受けて仕事を始めると、だんだんと面白くなっていく。富士山は夏のシーズンで終わり、その後は工事現場の付近で一般車両の誘導をしたり、自衛隊の演習場で治安の監視をしたりと、体力的にはきつかったが警備の仕事が嫌になることはなかったという。
「最初はバイト感覚だったこともあって、正直なところ、それまでは警備員の誘導という仕事を軽く見ていたと思うんだよね。だけど、いざ自分でやってみるとそれは大変で、安全を守る一翼を担う仕事なのだとわかった。警備員にはいろんなバックボーンを抱えた人が多様にいて、今まで出会ったことがなかったようなタイプと話してみると自分にはなかった視点を持っていて、こういう生き方もあるのかと見方が変わってきたんです」
さらに23年の2月から警備しているのが、「本町2丁目交差点」だ。外国人観光客の急増とともにオーバーツーリズムの問題が生じ、警備員は英検2級以上が必須条件になった。富士山の撮影に夢中になって、車道へはみ出してしまう人、青信号になると横断歩道で立ち止まる人もいて、商店街の交差点という場所柄、地元の住人や車を運転する人から苦情が相次いでいたのだ。
いかに交通ルールを守ってもらい、安全に誘導できるかを求められる難しい現場だった。
「地元の人の心情を重んじるのはもちろんのこと、僕は観光客へのおもてなしも大事だと思う。せっかく日本へ来て、富士山を撮りたいという人たちに『撮るな』とは言えないでしょう。だから、見極めが必要。日本のルールでは横断歩道に立ち止まってはいけないから、例えば『ゆっくり歩きながら写真を撮ってください(Take your photo while you are walking slowly.)』などと伝えたり、青信号が点滅したら、僕は真ん中に出て撮影している人たちを『(歩道へ)下がって(Go back.)』と誘導したりする。怖い顔して言うんじゃなく、ジョークを交えながら伝えるんです。
■肩書を捨てて芽生えた「生への執着」
住井さんがおもてなしの気持ちで心がけていることがある。
毎朝、日の出の富士山の写真を撮っておくのだ。富士山にはすぐに雲がかかるため、せっかく見に来たのに、その姿を拝めない観光客も多い。そこでがっかりした様子の観光客に、その写真を見せるととても喜ばれるという。
また「どこか他にいいスポットはないか?」と聞かれた際に、「夕陽の風景は山中湖がいいよ」などと勧めると、翌日わざわざ住井さんの元をまた訪れて「行ってみたら良かったよ」と報告してくれたり、海外から連絡をくれる人がいたりするという。今では、警備の仕事をきっかけにLINEでつながった人たちが、国を超えて数十人まで増えているそうだ。

商社マン時代は三井物産の名刺でいくらでも人脈が広がったが、互いに見返りを求める付き合いが多かったという。だが、今は肩書などなくても、その場の会話や気配りで喜んでもらえる嬉しさがある。
「毎日いろんな出会いがあるし、富士山の姿も日々変わるから同じ風景はない。そんな暮らしが楽しくて、今は生きることに執着しちゃうよね。あんなにいつ死んでもいいって思っていたのにな」と、目を細める住井さん。
■今勉強しているのは「スラング」
長生きして元気に警備ができるよう、今は何より健康管理に気を付けているという。
妻の手料理と規則正しい生活、仕事で7000歩は動き回るから自然と健康体になっている。飼い犬を最後まで育てねばという責任感もある。
人生100年といわれる時代。50代、60代になると、その先の生き方に不安を抱えることもあるだろう。かつては老後の自分を思い描くこともなかったという住井さんだが、今は、こんな思いで日々を送っているという。
「自分がそれまでの人生で身につけてきた経験は、すべてが大切なもの。だから自信をもって振り返り、それらをバネにして先へ進んでいけばいい。老人になると役に立たないように見られがちだけど、決して“老害”なんかじゃない。生きていること自体に価値があるんじゃないかな」
住井さんは毎日現場から帰ると、その日の自分の対応はどうだったかと顧みる。わからない英単語があれば、辞書をひいて調べておく。自分の英会話はどうも堅苦しいので、今はネイティブがよく使うスラング(俗語)を一生懸命勉強しているのだとか。
「警備員は定年がない仕事だから」と、快活に笑う住井さん。80代にして向上心はなお尽きないようだ。

----------

歌代 幸子(うたしろ・ゆきこ)

ノンフィクションライター

1964年新潟県生まれ。学習院大学卒業後、出版社の編集者を経て、ノンフィクションライターに。スポーツ、人物ルポルタ―ジュ、事件取材など幅広く執筆活動を行っている。著書に、『音羽「お受験」殺人』、『精子提供―父親を知らない子どもたち』、『一冊の本をあなたに―3・11絵本プロジェクトいわての物語』、『慶應幼稚舎の流儀』、『100歳の秘訣』、『鏡の中のいわさきちひろ』など。

----------

(ノンフィクションライター 歌代 幸子)
編集部おすすめ