人はどのようにして、統一教会のような変わった教えの宗教に感化されるのか? 統一教会は特別なマインド・コントロール(MC)の技術を持っているのか? 自身もかつて信者だったこともある著者・仲正昌樹氏。上記の疑問に真摯に答えた最新論考。
■統一教会のマインド・コントロール(MC)の技術!?
統一教会はマインド・コントロール(MC)の技術を持っているので、普通の人が信者に接するのは危険だという人たちがいる。元信者である私は、そんな特別なMC技術などあるはずがない、あれば、とっくの昔に大教団になっているはず、と主張している。ただ、MCと呼ぶかどうかは別として、かつての私自身を含めて信者になる人が一定数いるということは、何らかの形で感化されているということだ。人はどのようにして、統一教会のような変わった教えの宗教に感化されるのか?
反統一教会の活動で知られる宗教社会学者の櫻井義秀氏に『統一教会』という共著があるが、その中で彼は、統一教会の布教のやり方について、ビデオセンターという場所につれて行って、原理講義のビデオを見せるが、その内容は訳が分からないもので、感動する者はほとんどいない、と述べている。では、全く感動しないのに、どうして入信するのか? 櫻井氏によると、その訳の分からないものを見せられて混乱している対象者に、マニュアルに従って熱心に話しかけ、ズルズルと話を引き延ばし、情的な関係を作ることで離れられないようにする、というのである。
それに対して最近、統一教会系の団体の幹部である魚谷俊輔氏は、櫻井氏に対する反論本『反証 櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』』で、講義の内容を理解し、感銘を受ける人がいるからこそ、信者が存在するのだと主張している。
私はもう信者ではないので、講義内容自体がすばらしくて感動する人が多いとは言わないが、講義の内容を理解できる人はほとんどいないという櫻井氏の記述は違うと思う。本当に感動するかどうかは別にして、教義を紹介する原理講義は納得できるかどうかは別として、ほとんどの人が理解できないほど難しいものではない。
私が入信した頃は、ビデオセンターというものはなく、そこの地区の責任者が講義していた。講義のビデオを見せるようになったのは、信者がある程度増えてくると、講義のうまい下手があるので、講義がうまいとされるベテラン信者の講義を録画したものが使った方がいいという考えがあったからである。そんなに難しい内容なら、ビデオにして見せる意味はない――無論、サブリミナルなしかけが施された特殊なものではない。
ただ、講義内容が論理的に正しいと確信したことによって、信者になる人もいないと思う。
■「自分とはどういう存在かをめぐる『物語 story』」を人は生きる
肝心なのは、その人がそれまでの人生で形成してきた、自分とはどういう存在かをめぐる「物語 story」と、講義で聞かされる内容が適合しているように思えるかである。この場合の「物語」というのは、サンデルなどのコミュニタリアンが言っている「物語」のことである。どんな人間でも、自分は(他者との関係で)どういう人間かという自己意識を持ち、自分なりの人生の目標や幸福観を持っている以上、かなり漠然とした形ではあれ、過去から未来に向かう人生の「物語」を持っている。無論、その「物語」は客観的事実だけから構成されるものではない。少なからず、その人の生まれ育った環境や、属している共同体に共有されている「物語」に影響される。コミュニタリアンは、後者の共同体の物語の個人への影響を重視する。
統一教会の原理講義も、そうした物語、教団が共有している人間の生き方についての物語をベースにしている。新しく来た人に対するトークは、その人の人生の物語と、教団の教義の物語が一致しているように思わせる試みである。教団からすれば、人生の真実を明らかにする営みだが、批判的な観点に立てば、異質な物語の間での辻褄合わせにすぎないであろう。
統一教会の暫定的な教典である「原理講論」の中核になっているのは、新旧約の聖書をベースにした人間の(楽園からの)堕落と復帰の物語である。
特徴は第一に、人間の始祖の堕落を性的なものと見ること。この見方自体は、フーコー(一九二六-八四)の『肉の告白』(二〇一八)とかミルトン(一六〇八-七四)の『失楽園』(一六六七)を読めば分かるように、キリスト教思想史ではさほどレアではない。統一教会は、それが私たちのリアルな人間関係に反映されている、と教える。簡単に言うと、愛欲をめぐる人間関係のもつれである。
第二に、旧約聖書で展開されるユダヤ民族の生成と迫害の歴史を、カインによるアベル殺害に始まる、自分は――神あるいは親から――愛されてないと感じる者の、愛されている者に対して抱くルサンチマンと、後者によるそれを克服するための闘いの歴史と見る歴史観である。嫉妬による兄弟殺しというモチーフを重視する見方はやはりキリスト教の伝統の中にもあるが、統一教会は、アベル的人物=神側とカイン的人物=サタン側の人物の対決が聖書の歴史を動かしている、と教える。それもまた、現実の人間関係に反映されている、ということが強調される。簡単に言うと、嫉妬に起因する対立である。
原理講義では、オーソドックスなクリスチャンであれば、顔をしかめそうなほど、聖書の代表的なエピソードを、身近な問題に感じられるように解釈、プレゼンするので、何だか自分のことを言われているように感じる人もいる。そこで、紹介者が、「そうです、あなたの話です!」といって引き込んでいく。

■自分の人生に意味を与えてくれる「大きな物語」があるかどうか
統一教会は、聖書の物語と、目の前にいる個人の人生がリンクしやすいよう、原理講論・講義の構成と、勧誘している相手へのトークにかなり工夫しているのだと思う。MCの技術があるとすれば、そうした物語を調整する技術である。
それは、キリスト教をはじめ、いろんな宗教や思想団体が新しいメンバーを獲得し、古くからのメンバーを繋ぎとめるため多かれ少なかれやっていることだろう。教義を伝えるだけ、あるいは、人情的な会話をするだけで、信者を獲得できるのは、かなりレアなケースではないかと思う。教義の中で語られる神や仏の英雄的行為や試練、悲劇、勝利などが、その人自身の人生とリンクしているように見える(見せる)ことが、入信のカギになる。
統一教会は、一定の物語的な傾向を有している人、自分の平凡な人生が、実は世界史の大きな動きと連動していて、自分も何かの使命を背負っているのではないか、これまでの人生で経験してきた辛いこと、惨めだったことはその使命を果たせるようになるための試練だった、と思いたいようなタイプの人にとって、「これこそが私の生きる道だ」と思える物語を提供してきたのだと思う――私もそういうタイプだったのだろう。そういうヒーロー願望があまり強くなく、瞑想とか神秘体験に関心がある人にとっては、さほど魅力的ではないかもしれない。
そうやって各人の抱いている自分の人生の物語と、教義の物語が一致したことを示した後、それが実感できるような体験をさせる。統一教会の場合、布教と物売りの実践に重きが置かれるが、その教義を実践したことで、これまでの人生の経験が生かされたうえ、自分の限界が突破できたと本人が確信できるのであれば、どんな実践でも構わないだろう。
教義の中に神やサタン、霊界の話が出てくるのは荒唐無稽ではないか、どうして信じられるのか、と不思議に思う人は少なくないだろうが、宗教に関心を持つ人にとって、教義に科学的根拠があるかどうかなどというのは、はっきり言ってどうでもいい話だ。

■違う人生を歩み始めるには、違う物語が必要
マルクス主義のような包括的な世界観・歴史観を持つ思想運動も基本は同じである。自分自身の労働者とか学生、ジャーナリストなどの経験(の物語)と、マルクス主義が説く階級闘争の物語が深い所で共鳴し、自分も革命の一翼を担っているように思える人が、マルクス主義者になっていたのである。階級闘争史観は、科学的に証明可能な法則でも、事実の集積でもなく、社会がどう変化してほしいかに関する人々の願望を反映した物語だ。
科学的であることを標ぼうする正統なマルクス主義者は、自分たちが「物語」のような非合理的なものによって動機付けられていることを基本的に認めないが、フランスのアナーキスト、ジョルジュ・ソレル(一八四七-一九二二)のように、人々の無意識に潜在している神話的イメージこそが革命の真の動員力になると主張する理論家もいる。吉本隆明(一九二四-二〇一二)の共同幻想論も、民衆の生活に根ざした神話や民話こそが、政治や国家を支えているという議論である。

統一教会の教義が、優れた物語であると言いたいわけではない。平均的な日本人にとって親しみやすい物語であれば、もっと大きな教団になっていたろうし、社会との摩擦ももっと少なかっただろう。しかし、今現在信じている人にとっては、自分の人生の物語が、教義の一部になっているのである。その人が辿ってきた人生の物語を無視して、君たちは洗脳されていると言い続けても、何も変わりはしない。
文:仲正昌樹