森羅万象をよく観察し、深く思考する習慣を身につけよう。すると新しい気づきが得られ、日々の生活はより面白くなる。
第35回 充実した人生に唯一必要なもの
【長生きしたいのは何のため?】
人生がどうあってほしいかという希望は、人それぞれだから、こういったテーマは語りにくい。有意義であってほしいか、楽しくあってほしいか、それとも自分の思うとおりであってほしいか、など抽象的な言葉で表現しても、いろいろバリエーションが考えられる。多くの人は、「どうだって良い」とまでは思っていないはずだ。むしろ逆に、苦しみたくないとか、平穏であってほしいとか、あるいは、平均的で普通ならばそれで良いと消極的に考える人もいるかもしれない。多数を対象にアンケートでも取らないかぎり実態はわからないし、アンケートなんかでわかるのかな、との疑問も残るだろう。
たいていの人は、「長生きしたい」と答えるかもしれない。たしかに、「早死にしたい」という意見はマイナだ。
さて、長生きしたいという願望は、どうして長生きが良いのかという点を曖昧にして、言葉だけが一人歩きしている。言葉が一人歩きする例は、一般に多岐にわたって非常に多い。ほとんどの人は、「長生きしたい理由」を具体的に考えていないように観察される。たとえば、「何歳まで生きたいか?」と追加の質問をすると、「平均寿命くらいは」と答える人が多く、「最低でも百歳まで」といった返答はむしろ少ないようだ。欲が深いことが嫌われる日本の文化かもしれない。
長生きしたいという願望は、実は、病気や怪我などで苦しみたくない、という意味が隠れている、と想像できる。やはり、なにごともなく平穏でいたい、それが幸せだというところへ行き着くようだ。しかし、こう問いたい。「だから、なにごともなく平穏な状況は何のためなのか?」
平穏な毎日、なにもトラブルがない日常、それはつまり、今現在の日々のことだろうか? 今が幸せで、これが未来にわたって、できるだけ継続してほしい、という願望だろうか。
なんだか、人生というのは、生きなければならないノルマのようなもので、老齢になると、もう自分はノルマを果たした、これで充分だったはず、高望みはしない、ただ、もう少し生きていたい、といった心境のようにも想像される。皆さんは、いかがだろうか?
【毎日はそれなりに楽しい?】
心配事があったり、将来に向けて不安があったり、といった話は頻繁に耳にするけれど、これは不確定な未来を悲観的に観測しているものだ。悲観的観測は人間の本能的なものであり、動物よりも優れている能力といえる。その不安が現実となる確率がどれほどかで、人それぞれ具体的には大きく異なるが、しかし、今日を生きることができないほどには困っていない。自殺を具体的に考えるほどでもない。とりあえず、現代社会には、困窮している個人を助けるための制度が数々設けられている。たとえば、良くないことだが「借金」というシステムがあって、これで一時的に救われることが多い。もちろん、金では解決できない問題も多々あって、多くは愛情や憎悪のような感情的な対人関係に起因しているだろう。
たしかに、自殺をしたり、犯罪に手を染めたりといった人が、ある程度の割合存在する。ただ、ほとんどの人たちは、毎日を生きて、明日のための準備をする。
長寿を願うのは、最悪ではない日々を長く続ければ、なにか今より良い状況が訪れるかもしれない、長いほどその確率は高くなるはずだ、といった観測による。ぼんやりと、そんなイメージというか、言葉にならない感覚を持っているはず。言葉にならないのは、言葉にしたことがないからで、そんな将来のことを他者に話すなんて恥ずかしい、といった気持ちが言語化を抑制している。
僕は、そういう日常というのが、ある種、幸せの一例なのではないか、と考えている。否、考えているというよりは、評価している、といった方が近い。
人間の感性というのは、現在の絶対値ではなく、現在の変化率に支配されている。これは、たとえるなら、速度は体感できないが、加速度は感じることができるのと似ている。
逆にいえば、現在の状況がプラスかマイナスか、といった尺度は存在しない。幸福か不幸かは測れないのだ。ただ、どちらへ近づいているか、その変化だけが感知される。
【明日を楽しくするための今日】
幸せというのは何か、つまりそれは、楽しい時間のことだろう。では、どうすれば楽しくなるのか? 難しくはない、楽しいことをすれば良い。しかし、毎日そんなに楽しいことばかりがあるわけではない。朝目覚めて、今日は何があるか、と考えても、そんなに楽しいことはない。
多くの人は、面倒でしたくないことがなくなれば楽しくなれる、と考えているかもしれない。たとえば、週末がそうだ。仕事や学校へ行かなくても良い。無理に起きなくても良い。でも、それって楽しいものだろうか?
嫌なことをしなくても良い時間とは、楽しい時間ではない。楽しくなるためには、なにか楽しいことをしなくてはいけない。寝ているだけでは楽しくない。寝ることが楽しいという睡眠趣味の人はいるかもしれないけれど、いつまでも寝ていられるわけではない。
もし、あなたを楽しませてくれる人が近くにいるのなら、なにもしなくても良い。暇な時間がくれば、あなたは楽しめるだろう。子供のときは、親がそれをしてくれたかもしれない。
そして、ここが一番大事な点だが、あなたは自分が何をすれば楽しく感じられるのかを知っている必要がある。それを知らないと、準備のしようがないからだ。
自分が楽しめることを、普通は知っているのでは、と思われるかもしれない。本当にそうだろうか? 自分は何をすれば楽しめるのか、あなたは知っていますか? ずばり、それは何か、今説明ができますか?
誰かと一緒になにかをして、おしゃべりをして、みんなで楽しくしたい、と答える人が多いかもしれない。そうではなく、あなたがしたいことを尋ねている。他者からしてもらいたいことではない。あなたがあなたのためにすることなのだ。
まず、自分が何をすれば良いかを考えること、これが一番。そして、そのために必要なものを準備すること、これが二番。少々面倒かもしれないけれど、それを考えて、実行すること。これが、明日を幸せにする方法である。
この一番というのは、別の言葉でいうと、「思想」である。そして、二番は、「計画」だ。人生を充実させるために最低限必要なものとは、思想と計画である。そして、補助的に必要なものとして、時間、資金、場所、他者、才能、努力、運、などがある。
「時間がない」「お金がない」と言い訳する人は、思想と計画を持っていない。運を天に任せる人生ともいえる。そうではない。あなたの運は、あなたに任されているのだ。
【家族とのつき合いで社会を知る】
僕の場合、仕事は社会から隔絶した環境だった。研究者も作家も個人的な活動なので、あまり他者を気にする必要がない。他者の機嫌を窺ったり、周囲が自分をどう思っているかを気遣ったりしないでも良い。ただ、大学生だけは例外で、お客様なので親切を心がけた。
こういう捻くれた人間だから、社会というものは、主に家庭で学んだといえる。特に、奥様(あえて敬称)とのつき合いが、最も勉強になった。彼女と接する過程で学び、反省し、自分を変えるように努めた。まあ、それでこんなに丸くなった(この程度にしか丸くならなかった)のである。
奥様の方も、僕とつき合って学習した様子である。たとえば、僕が指導的な意見を述べても、微笑みながら聞き流す。聞いているようで全然頭に入れていない。若い頃の彼女だったら、人から指図されるのが大嫌いで、かちんときたはずだ。今では、滅多に怒らない。人間ができている。新書で、「聞き流す力」を執筆できるほどだ。
先日、丸いケーキを5人で食べる機会があり、包丁を彼女が手に持ち、人数を確認してからケーキを切ろうとした。僕は、「直径を切ったら駄目だよ」とアドバイスしたが、彼女は頷きながらケーキをまず半分にした。そのあと、えっと、と考えて、どうすれば5等分できるか、と考えたようだった。世間の多くの人は、このように、ちょっとなにかしてから考える傾向がある。ちょっと考えてからなにかするようにしてほしい。
文:森博嗣