■学級崩壊はある日突然に起こるものではない

 



 小学校1年生の児童が、教室で大暴れをする時代である。子どもたちの目が血走り、暴言、暴力を繰り返す。

それを教師たちはコントロールできず、ただただ、けが人が出ないように監視するばかりなのだ。私も長い年月教師をやってきたが、「担任は療養休暇に入り、常時3、4人の教師や支援員がそのクラスに関わり対応しなければならない状況」というのは、そう多くあるものではない(3年前に目の当たりにしたことがある)。



 教育現場でこのような状況が目立ち始めたのは、近年のことである。



 私が最初に低学年(1、2年生)の学級崩壊を目の当たりにしたのは、16年前だった。私は、その崩壊した学級を立て直すことに直接携わったのだが、関わった当初、その崩壊したクラスの状況にあきれ、どのような経過を辿ったらこのような状況になるのか、全く理解できなかった。しかし、それ以降、私は多くの学級崩壊に携わり、「学級崩壊はある日突然に起こるものではない」ということを、身を持って理解したのだ。



 今年度、茅ケ崎市内のある小学校1年生の教室で、3年前に他の小学校で見られた状況と同じようなことが起きている。「担任は療養休暇に入り、常時3、4人の教師や支援員がそのクラスに関わり対応しなければならない」という状況に陥っているのだ。このような教室の多くは、子どもたちが集団パニック(集団興奮状態)に陥っているので、子どもたちは自分で善し悪しの判断ができず、一言で表せば「やりたいほうだい」。



 掃除の時間だった。敏行(仮称)がいつものように箒を振り回し始めた。この日は、教頭先生が掃除の見守りとして、その教室に入っていた。

その様子を見かねた教頭先生が、いつものように諭すような言葉がけをした。



 「箒を振り回すとどうなるだろうな」



 その声が聴こえているのかいないのか、敏行はいっこうに止めようとしない。教頭先生はさらに言葉を続けた。



 「箒を振り回すと誰かに当たってしまうだろう」



 敏行は、まるで、何事もないかのようにただ繰り返すばかりだ。その姿に、教頭先生も腹に据えかねたのだろう、大声をだした。



 「止めろと言っただろう」



 すると、反射的に、である。敏行は



 「うるせぇー!」



 叫ぶやいなや箒を教頭先生に投げつけたのだ。学級崩壊の只中にいる子どもは、このような姿をあちこちで見せる。当然、子ども自身は、自分がパニック(興奮状態)に陥っていることを認識していない。





■学級崩壊までに起こる教室内の出来事

 



  この1年生の教室も、当初から、子どもたちが自分勝手な行動を繰り返していたわけではないだろう。教室には不安定な子どもは数名いるが、ある日突然に子どもが激変し、教室の中が興奮状態に陥ったのではないはずだ。私の想像に過ぎないが、まずは、子どもたちの授業からの逃避が始まり、教室の中では暫時次のようなことが起き続け、最終的に子どもたちは集団規律を失い、やりたい放題の状況に至ったのではないだろうか。



 



〔学級崩壊までに起こる教室内の出来事とその対応〕



1. 子どもの授業からの逃避(授業が分からない、やる気が出ない)→ 授業改善



2. 子どもの教師への反抗(いつも叱られる、自分を見てくれない、不平等感)→ 関係性と平等感を育む



3. 児童間のトラブル多発(満たされない子どもたちは暴力と暴言を繰り返す)→ 仲間意識を育む



4. 反抗児童の集団化(あの子が許されるなら自分も)→ 仲間づくり・特別扱いしない



5. 反抗児童と授業を受けたい児童との対立化(授業妨害する者を排除)→ 認め合う関係づくり



6. 教室内のごみの散乱(周りへの無関心化)→ 心地よい環境づくり



7. 反抗児童とそれに靡く児童の授業妨害(自分に関わってほしい、教師への反抗)→ 誰一人とり残さない教師の意識を強化



8. 反抗児童の教室からの逃避(仲間意識の喪失・何やっても許される)→ 関係性の強化、仲間づくり



9. 教室の無気力化(学びの喪失)→ 授業改善・関係づくり・仲間づくり



10. 教室内の無関心化(他者からの攻撃から自分を守るために無関心〈見ざる・言わざる・聞かざる〉を貫く)→ 一緒に遊べる環境づくり



 



 上記の10の項目は、私自身の体験や周りで崩れていく教室から、私自身が捉えた教室内に起こる現象なのだが、これらの現象は上記のように上から順序よく現われるのではない。多くの崩壊した学級の中では、これらが順不同に複合的に現われる。



 私はまた嫌な思いをさせるのではないかと思い躊躇(ためら)ったが、過去に学級運営がとても困難な状況に陥り、何度もくじけそうになった経験を持つ太田先生(仮称)にも、上記の一覧表を見てもらった。しばらくじっと10の項目を眺めていた太田先生は、やおら言葉を発した。



 「それぞれの場面で目立っていた子どもの顔が浮かんできました」



 思い出したくもない苦い味が喉奥から蘇ってきたかのような顔をした太田先生の口から言葉が漏れ出てきた。また話はそれだけに終わらなかった。



 「あの時、ここには書いていませんが、授業妨害する子たちとちゃんとやりたい子たちとの間に、子ども同士の対立がありました」



 崩れていく教室を目の当たりにした人にしか分からない言葉である。私が捉えることができなかった状況を、太田先生は教えてくれた。





■学級崩壊が低年齢化している理由

 



 先述した10の現象が、1つ2つと自分の教室の中に現われたら、教師は早急に自分の実践を見直し、対応策を練らなければならないだろう。「1つ、2つはどこの教室にもある」なんて気楽に考えていると、気が付いた時にはいくつもの現象が目の前にあった、なんてことになりかねないのだ。特に、経験の浅い教師は自分一人で何とかしようとしないでほしい。



 対応が遅くなればなるほど、環境を整え、教師と子ども、子どもと子どもの関係を再び築いていくのに、長い時間と多くの手間がかかる。

また、これまでに何度も何度も書いてきたが、「学級崩壊や不登校の問題は、学校や家庭、教師の問題だ」で済まされない。「社会的な課題」なのだ。だから、経験の浅い教師が一人で問題を抱えて何とかなるものではない、と早く理解した方が良いだろう。



 低年齢化している学級崩壊は、小学校に入学する時にはすでに子どもたちが不安定な状況にある、ということを示している。正確に言えば、一部の不安定な子どもが悪目立ちする、と言った方が良いかもしれないが、先述した学級崩壊も、そのきっかけをつくったのはその不安定な一部の子どもたちだった。それでも、早期に不安定な子どもたちを安定させることができれば、多くの場合学級崩壊を免れることができる、と私は確信している。だが、残念なことに、教室にいる一人ひとりの子どもたちに注がれていない教師の目には、その兆(きざ)しが映らない。



 このような不安定な状況が、まさに今の教育現場なのである。しかし、学校がこのような状況にあるにもかかわらず、文科省は「教科担任制」を4年生まで拡大しようとしている。現在、文科省は小学校5、6年生まで教科担任制を導入している最中であるが、私自身、不安定な教育現場を直視していないその施策に首を傾げている。にもかかわらず、「4年生まで教科担任制を拡大する」というのは、私にとっては何をか況やである。



 実は、文科省は「子どもの徳育に関する懇談会」において審議された内容として「子どもの発達段階ごとの特徴と重視すべき課題」をホームページ上に示している。

その中で、学童期(高学年・9歳以降)の重視すべきこととして、次のような5つの課題が記されていることが分かった。



 



・抽象的な思考への適応や他者の視点に対する理解



・自己肯定感の育成



・自他の尊重の意識や他者の思いやりなどの涵養(かんよう)



・集団における役割の尊重や主体的な責任意識の育成



・体験活動の実施など実社会への興味関心を持つきっかけづくり



 



 書かれている内容はもっともなものである。皮肉にもこの課題を読んでいると、これらの課題は、日本の現代社会に求められるものであるかのような錯覚に陥ってしまう(いやいや現代の日本社会の課題は小学校高学年並みなのか、そんなことを思いながら課題を読んでしまったが、話を戻しましょう)。





■不安定な教育現場を直視していない文科省の愚策



 ここに示された課題は、現場の目からしても納得のいくものである。これらは現実的な課題であり、これらの課題克服によって子どもたちはより安定していくだろうという予想は立つ。しかし、これらの5つの課題をまだ克服していない子どもたちが、「教科担任制」という関係が希薄になりがちな教室で学び続けて、果たして文科省が求める「主体的・対話的な深い学び」を得ることができるのだろうか。



 これまでに曲がりなりにも中・高校生が「教科担任制」でやってこられたのは、中・高校生が上記の課題を克服し「自立した存在」として一人ひとりが力を発揮することができていたからではないのか。「教科担任制」の中で、子どもが学び続けられるためには、子どもが「自立した存在」でなければならないということは、これまでの実践が証明している。



 余談であるが、近年、中学校での不登校の多さは、上記の課題がまだ克服できていない多くの中学生の存在があるし、個と個の関係性が希薄な「教科担任制」と「中学生の不登校」は全く無関係ではないのではないだろうか。



 先述した学級崩壊の現状を思い出してもらいたいが、今多くの教室では、不安定な子どもたちが目立っている。その要因は様々であるが、この不安定な子どもたちが上記の課題克服を含め、4年生以降さらに多くの事を体験し学ぶことを強いられるのである。このような環境の中での「4年生への教科担任制拡大」は、果たして何を目的にして行われるのか、私には全く理解できない。

そればかりか、さらに多くの「学級崩壊」を引き起こす要因になりかねないと、危惧するばかりである。



 子どもは、一人で育つわけではない。特に学童期の子どもは、教師、友だち、親、兄弟などの他者との関係性の中で育っていくのだ。子どもは多様な人と繋がり、他者と協働し学び合い、時には助け合いながら自分の思いや考えを具現化していくことに喜びを見出していく。そのような時期に、関係性がより希薄になる「教科担任制」を小学校に導入しようとするのはいかがなものか。少々の暴言を許してもらえるならば、これこそ実態を見ないで策を練る「机上の空論」と言われても仕方がない。



 教室にいる様々な子どもたちの実態を見れば、「教科担任制の拡大」という考えには至らないはずなのだが、現状はそうではないようだ。社会が変化していけば今まで通用していたことが通用しなくなるのは当然のことだが、子どもたちが育つ新しい環境を創ろうとするならば、目の前にいる子どもたちを「ちゃんと見る」ことから始めなければならないのではないだろうか。



 今、「目の前にいる不安定な子どもたちを安定させることが、様々な課題克服のための一歩である」ということが、目の前にいる子どもたちを見て私の思うことである。「教科担任制を拡大」もやってみないと分からないではないか、という思いを持っている者もいるかもしれないが、不安定な子どもたちの様子を見ていると、「その施策は子どもたちをさらに不安定にさせるものだ」と言わざるを得ないのだ。ご一考を願いたい。



 



文:西岡正樹

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