何が起きるか予測がつかない。これまでのやり方が通用しない。
「視点が変わる読書」第18回
激動の人生が見せる昭和の輝き
■ドル箱スター・石原裕次郎の陰で辛酸をなめた男
小林旭を生で見たのは、忘れもしない、2019年2月16日。場所は千葉県文化会館だった。
その前年の9月から小林旭はデビュー63周年を記念する「プレミアムコンサート」で全国を回っていた。夫が大の旭ファンで、これを逃すと二度と彼の肉声を聴くことができないかもしれないと危機感を抱き、一緒にコンサートに行くことになったのだ。
当日、会場の1700席は八割方の入り。観客は70~80代と思われる人たちが大半であった。その観客を前に、白いスーツを着た旭が歌う、歌う。
「ギターを持った渡り鳥」、「ダイナマイトは150屯」、「自動車ショー歌」、「恋の山手線」、「さすらい」、「北帰行」、「昔の名前で出ています」、「熱き心に」……往年のヒットナンバー20曲を休憩もとらず、2時間ぶっ通しで歌い続けたのである。
その声量たるや、とても80歳のものとは思われない。MCも上手く、昔話などを入れ込んで、客を笑わせている。
その存在感にただただ圧倒された。
ところで今、「小林旭」の名前を聞いて、どれくらいの人が反応できるだろう。
60代以上であれば、恐らくOK。50代もぎりぎりセーフかな。40代はちょっと危ない。30代以下は無理かもしれない……。お祖父さんやお祖母さんが旭のファンであったというなら別だが。
小林旭は現在86歳。芸能活動から遠ざかって久しいのだから、若い人が知らなくても無理はないと思ったら、それは違う。旭は今なお現役の歌手で、デビュー70周年!の今年は5月に大阪の新歌舞伎座で「70周年記念コンサート AKIRA THE ONLY ONE SHOW AGAIN」が開催されるのである。
しかし、歌手は旭の一面に過ぎない。
1955年、小林旭は第三期ニューフェイスとして日活に入社した。本来オーディションの条件は18歳以上だったが、歳をごまかし16歳で通ったのだ。同期には二谷英明がいた。
翌年『飢える魂』で銀幕デビューを果たすも、3年間は大部屋で辛酸をなめた。
一方石原裕次郎は、兄・石原慎太郎の小説『太陽の季節』を日活が映画化した56年、その映画に出演するために日活に入社するや、すぐに『狂った果実』で主役に抜擢され、以降スター街道を驀進。
ドル箱スターの裕次郎をちやほやする会社に対し苦々しい思いを抱いていた旭だったが、59年、ペギー葉山が歌って大流行した『南国土佐を後にして』の映画化で、主役を演じると、これが大ヒットして、旭の代表作「渡り鳥シリーズ」に繋がった。
1960年代に入ると、裕次郎人気は早くも翳りを見せはじめ、旭の時代が到来する。「渡り鳥シリーズ」は『ギターを持った渡り鳥』から『渡り鳥北へ帰る』まで8作が制作され、いずれも大当たりした。旭が演じたのは、暴力団組織の陰謀で警察をクビになった元刑事・滝伸次である。伸次は函館、会津、宮崎、長崎と日本中をギターを持って旅をし、土地土地で悪と闘う。主に浅丘ルリコ演じる土地の女性と情を交わしながらも、それを振り切って、次の土地へと旅立っていく。
ストーリーは荒唐無稽で馬鹿馬鹿しくもあるが、伸次役の小林旭のルックスとアクションのかっこよさはストーリーの欠点を補って余りある。アマゾンプライムビデオなどを利用すれば見られるので、是非一度見てほしい。
「渡り鳥シリーズ」に平行して、旭主演の「銀座旋風児シリーズ」、「流れ者シリーズ」も制作され、その人気は大爆発した。
■マイトガイはなぜ今も輝いているのか
さらに人気に拍車をかけたのは歌だった。「渡り鳥シリーズ」では、主題歌『ギターを持った渡り鳥』をはじめ、劇中歌も本人がギターを奏でながら歌い、「流れ者シリーズ」では『ダンチョネ節』をはじめとする、地方の民謡と結びついた「アキラ節」の歌が生まれた。これらの曲が全てレコードとなって、映画の封切に合わせて売り出され、売れに売れたのだ。
俳優が歌う半端な歌などと思わないでほしい。大の旭ファンである大瀧詠一は、「アキラは声がよく歌唱力がある。ノヴェルティー・タイプとメロディー・タイプの両方の歌を歌える」と絶賛している。
『マイトガイは死なず』では、日活黄金時代に始まり、浅丘ルリ子との悲恋や美空ひばりとの結婚、日活をやめ、自ら「アロー・エンタープライズ」を設立して映画制作を始めたこと、東映の「仁義なき戦いシリーズ」への出演、ゴルフ場経営に乗り出して大失敗し、14億円の借金を抱えたこと、その借金を『昔の名前で出ています』を歌って巡業し全て返済したこと、AGFのコマーシャルソングとして作られた『熱き心に』の大ヒットなど、旭の激動の半生が描かれている。
正直なところ、エピソードの多くは、これまで旭が出した『さすらい』(新潮社2001年)、『熱き心に』(双葉社 2004年)などの本と重複するが、重要なのは、タイトルの「マイトガイは死なず」が示しているように、今なお小林旭が生きていて、自分の言葉で語っているということだ。
16歳の日活入社からがむしゃらに走り続けてきた人生の何と輝きに満ちていること! その輝きは戦後の昭和のエネルギーの賜物である。
私は昭和39年、東京オリンピックの年の生まれだ。幼少期はちょうど旭が日活のスターとして活躍していた時期と重なる。あの頃、両親に東京の繁華街に連れていったもらった時の喧騒と活気は今も記憶に残っている。成長する日本と並走して旭は突っ走っていたのだ。
因みに「マイトガイ」は「ダイナマイトガイ」の略である。デビュー二曲目の『ダイナマイトは百五十屯』からとられていて、「ダイナマイトのように豪快な奴」という意味がこめられている。
石原裕次郎は1987年52歳で、宍戸錠は2020年86歳で、梅宮辰夫は2019年81歳で、菅原文太は2014年81歳で、高倉健は2014年83歳で、そしてかつて妻であった美空ひばりは1989年52歳で亡くなっている。
本の中で旭はこう述懐する。
■窮屈になった世の中を吹き飛ばす力
「文ちゃん(菅原文太)も辰ちゃん(梅宮辰夫)も山城新伍も(高倉)健さんも……みんな散ってしまった。切ないよね。(宍戸)錠さんなんて、亡くなるひと月くらい前まで元気そうにしてたから、訃報を知った時は思わずえっ! と声が出てしまったんだ。
最後に電話で話した時は『九十歳まで行くぞ』と張り切ってたから、どうぞ行ってくださいと言ったばかりだった。
日活にダイヤモンドラインができて、宣伝部が俺にマイトガイ、裕次郎にタフガイというニックネームをつけたとき、錠さんだけはなぜか〝エースのジョー〟だったんだ。『俺はモンダイガイだな』と言って、錠さんがみんなを笑わせたのを思い出すよ。
もっとも俺も八十五歳。どんなに元気だとかスタミナがあると言っても、昔の感覚なら頭がボケて、杖でもついてヨチヨチ歩いているのがせいぜいだ。降りかかってくる火の粉を振り払えるうちはいいけど、それができなくなったらおしまい。その時はしょうがねえなあと受け止めて眠るだけさ」
とは言うものの旭はこれまで大病を患ったことはなく、昔話の記憶も鮮明だという。タバコはとうの昔にやめて、酒は付き合い程度。夕飯にはウーバーイーツで注文したステーキをたいらげ、趣味のゴルフも続けている。何より、今なおステージに立って歌い続けている。
あああ あああ
一日 一日 遠くなる
わたしの時代が遠くなる
そして あのこも あのひとも
旭が歌う『昭和恋唄』の歌詞である。
今年は昭和100年にあたる。
しかし、時代は昭和から平成、令和と移り変わり、世の中も大きく変わった。色々便利にはなったが、窮屈にもなった。
マイトガイにはその窮屈さを吹き飛ばす力があるように思う。
5月に大阪で開催されるコンサートには是非行きたい。そこで小林旭の輝きを見たい。平成や令和にはない昭和の輝きを。
文:緒形圭子