■強制的にやめさせるべきなのか?
一般的にフェミニズムは、「ポルノ」を女性の権利を根本的に侵害するものとして告発する傾向が強いが、(心から望んでいるかは別として)ある程度自発的にポルノなどの性産業で働いている人たちのことはどう考えるのだろうか。自分の意志を表明することさえできない、あるいは、自分が本当は何を望んでいるか分からない状態にある人も多くいるので、本人の意志に表面的に反する形になっても、強制的にやめさせるべきなのだろうか?
「セクシュアル・ハラスメント」を法概念として定式化したことでも知られるアメリカのフェミニズム法学者キャサリン・マッキノン(一九四六-)とラディカル・フェミニズムの活動家アンドレア・ドゥウォーキン(一九四六-二〇〇五)は、「反ポルノ条例 Pornography Ordinance」の雛形を作った。
ポルノの間接的な害まで損害賠償にするというのは、人間関係における責任の範囲についての通常の理解を大きく越えているように思えるが、マッキノンたちの独自の精神分析的なジェンダー理解がある。彼女たちにとって、この社会は、男性的なファロス幻想と結びついた暴力によって基礎付けられている。つまり、自分たちはファロスを持っているがゆえに強いと思い込みたい男性たちが暴力によって女性たちを服従させることによって、私たちが生きている世界の秩序が基礎付けられたのである。ポルノは、そのファロス中心主義的な支配の根拠にある暴力を再現することで、男性の支配を再確認・強化するための行為だというのである。
無論、この前提に立てば、女性は未来永劫、ファロス的秩序に囚われ続け、法律によって暴力が顕在化することをある程度防ぐことしかできない、ということになる。更に言えば、もしこの世界が全面的にファロス中心主義の幻想によって成り立っているのであれば、マッキノンのようなラディカル・フェミニストだけがそうした幻想の支配を逃れて、それを批判し、対抗できる視座が持てると言えるのはどうしてか、彼女たちこそファロス中心主義の幻想を批判しているつもりで、その大前提になっている幻想――「この世界は、男性中心に創造されたので、この世界が続く限り、女性は解放されない」――を肯定する役割を担ってしまっているのではないか、という疑問を払拭することはできない。精神分析の影響を受けたラディカル・フェミニズムの理論にはそういう性質のものが多い。
このように、ポルノをファロス幻想強化の道具として徹底的に違法化しようとするマッキノンに対し、同じく精神分析を取り入れた、ポストモダン・フェミニズムの法哲学者ドゥルシラ・コーネル(一九五〇−二〇二二)は、現にポルノワーカーである女性の立場からこの問題を捉え直している。
■ポルノワーカーの立場はどうなってしまうのか?
コーネルも基本的にポルノには批判的な立場を取るが、ポルノを違法化した時、ポルノワーカーの立場がどうなるかを重視する。
有名なポルノワーカーへのインタビューで、コーネルはその女性に、ポルノワーカーになろうと思った原点について聞いている。その女性は幼少時、自分の祖父から性的いたずらをされた。辛かったが、終わった後で、小遣いをくれたことだけが嬉しい思い出として残った、と述べている。コーネルはその思い出が、その女性のアイデンティティの核になったのではないかと示唆する。
ラカン派の精神分析では、人間の心的領域は「現実界/象徴界/想像界」の三つの領域に分けられる。「現実界」というのは、我々が肉体を持った人間であるがゆえに不可避的にぶつかる物理的な限界を指す。「象徴界」は、我々の生に意味を与えるファロスを中心とした記号体系である。「想像界」は、お互いのイメージを介して相互に関係する、結び付いたり、反発したりする関係である。PCに譬えると、「現実界」が物質として存在するPC、ハード、「象徴界」がプログラム、ソフトだとすると、「想像界」は画面に現れるイメージ、文字、図形、アイコンなど、ということになるだろう。
コーネルは特に「想像界」に関心を持つ。
無論、そうやって他者のイメージを鏡にして自己形成するというのは、乳幼児に限ったことではない。「想像界」が形成され始めたばかりの乳幼児の場合、周囲の他者からのイメージを一方的に取り込み、他者にフィードバックすることは少ない。大人の場合、他人の話し方、身ぶり、文章、生き方のイメージを取り込み、自分でも気付かない内に周囲の他者同士で影響を与え合っている。「想像界」は、そうしたイメージのやりとりで互いに自己形成するのが「想像界」である。
■幸福とは何かを自分で決め、自分で追求することは可能か?
近代法では、自分の幸福とは何か自分で決め、自分のやり方で追求する幸福追求権が、あらゆる権利の基礎とされているが、それを実行するには、経済的な基盤や他者からの承認もさることながら、アイデンティティ形成の基盤となる本人の「想像界」が重要だ。例えば、それまで〇〇教の信者として自認して、教団の中で生活し、それ以外の人生は想像できなかった人が、何かのきっかけでその教団を出たいと思うようになっても、信者でない自分の生き方をそう簡単には想像できないかもしれない。そこにはもう居たくないと思っても、外で生きる自分の生きる目的をどう設定したらいいか分からない。そうしたことは多かれ少なかれ、ほとんどの民族的・ジェンダー的慣習、家庭生活、職業、趣味について言えることである。
コーネルはポルノワーカー、特に幼少時のトラウマ的な体験が「想像界」に強く影響し続け、ポルノワーカーとしてのアイデンティティと結び付いているような人にとって、いきなり違う生き方を選ぶのは難しいと指摘し、新しい生き方を選ぶようパターナリズム的な圧力をかけるべきではないという立場を取る。
コーネルは「自己決定」を行うための基礎として、他者とよりポジティヴと思える関係を築きながら「想像界」を再創造するための権利が、特に困難なアイデンティティを抱えた人に与えられるべきだとし、それを「イマジナリーな領域への権利 the right to the imaginary domain」と呼んでいる。具体的には、コンシャネス・レイジング・グループなどに参加し、演劇等の自己表現活動に関わるなどし、自分にとってしっくりくる自己のイメージを形成し直す余裕を与えられることである。
広い意味でのカウンセリングのことかと思う人が多いかもしれないが、「想像界」が様々な人々の言語化される以前――言語化されたものは、「象徴界」の管轄――のイメージのやりとりによって形成されるものである以上、一対一の――それもカウンセラーの方が父の代理のような位置を取る――言葉のやり取りによってクライアントの心的領域にほぼ一方的に操作を加えるカウンセリングは、「想像界」の再編にとって必ずしも有効な手段ではなかろう。言葉よりもイメージだ。
セクシュアル・ハラスメントは、ハラスメントを受ける側の「イマジナリーな領域への権利」侵害と捉え直すことができる。自分らしい性的なイメージを発展させることを、権力行使によって妨げられるからである。対価型、何かの報酬と引き換えに、または制裁をちらつかせることで相手を性的に従えようとするタイプのものではないセクハラ、女性差別的な言動とか、卑猥なことを語ったり、見せたりする環境型セクハラの場合、どういう権利が侵害されたのか考える際、「イマジナリーな領域」を想定すると、議論が分かりやすくなる。
■「ジェンダー的性正義」を適用する人たちの落とし穴
「イマジナリーな領域への権利」は、文化的マイノリティの――西欧人の目から見て――抑圧的な慣習のようなものをどうすべきか考える時にも示唆的である。キルギス等中央アジアで、「アラ・カチュー」と呼ばれる婚姻の形態がある。簡単に言えば、女性を暴力的に拉致して婚姻関係を結んでしまうことだ。無論、現在ではどの国でも法的に禁止されているが、政府が把握していない所で、アラ・カチューが実行されているとされ、国際的な人権問題として注目されている。
では、「アラ・カチュー」で誘拐された女性の権利を回復するには、何をすればいいか。近代法的に考えれば、誘拐犯の男と協力者たちを罰し、本人が元いた所に連れ戻すのが大前提になりそうだ。誘拐されてすぐであれば、ほとんどの場合、それが正しい措置だろう。しかし、誘拐から既に何十年も経ち、子や孫も生まれ、当人同士が幸福そうに暮らしている場合も、そうだろうか。原状回復すればいい、というものではないことは分かるはずだ。経済的な問題や家族関係の法的整理もさることながら、本人の「イマジナリーな領域」を今後どう発展させるかが重要になる。
私はある雑誌のインタビューでそういう主旨のことを述べたのだが、Saebouという自称フェミニストがものすごく短絡的に曲解し、「この人は文化的慣習だからといって、女性の略奪を正当化しようとしている」とネットに書き込んだ。それは曲解だと抗議したが、返答はなかった。フェミニストを名乗る者には、自分たちが想定する「ジェンダー的性正義」をあらゆる状況に直接適用しようとし、当事者の「イマジナリーな領域への権利」を全く考えようとしない者が少なくない。
文:仲正昌樹