時事問題を鋭く抉る批評が人気の作家・適菜収氏。当サイト「BEST T!MES」の長期連載「だから何度も言ったのに」の決定版が書籍化(『日本崩壊  百の兆候』5月刊)され発売されます。

毒舌に満ちた時評とは打って変わって、新連載の内容は「ハッピーな人生を送るためのヒント」。題して〝厭世的生き方のすすめ〟。いったい筆者にどんな心境の変化があったのか・・・。第1回は、「ポジティブに世を捨てよう!」。





 



■絶望からの卒業

 



 多くの人が絶望している。仕事の悩み、恋愛の悩み、対人関係の悩み、健康の悩み、育児の悩み、お金の悩み……。悩みの種は尽きることがない。若いときは気力で乗り越えられるのかもしれないが、歳をとると気力ではどうにもならないことを知るし、そもそも気力が湧かない。それで、いろいろごまかしながらやり過ごしていても、いつかは破綻する。「自分にご褒美」とか気色の悪いことを言って散財してもむなしくなるだけ。昔も今も、人の世はむなしいものである。



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 厭世主義という立場がある。

文字通り、世を厭(いと)うということだ。pessimismは「最悪」を意味するラテン語pessimumに由来する。古代ギリシャの詩人テオグニスは、「地上の人の世に生まれず、きらめく日の光を見ず、それこそすべてに勝りてよきことなり。されど、生まれしからにはいち早く死の神の門に至るが次善なり」と歌った。



 近代では、哲学者のアルトゥル・ショーペンハウエルが有名だろう。彼は存在の根本原理を盲目的な意志(生命衝動)と捉え、人生の悲惨も道徳的な善悪も関係ないと考えた。これは仏教の発想に近い。



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 作家の三島由紀夫は言った。



 《私の中の二十五年間を考えると、その空虚に今さらびっくりする。私はほとんど「生きた」とはいえない。鼻をつまみながら通りすぎたのだ》



 三島は絶望して死んだのではない。絶望に飽きて死んだのである。



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 近代大衆社会において正気を維持していたら反時代的な生き方にならざるを得ない。軋轢も増え、胃も痛くなる。私は「日刊ゲンダイ」で「それでもバカとは戦え」という連載をやっていたが、「非学者論に負けず」という言葉があるように、バカと戦っても無駄であることは最初からわかっていた。「釈迦に説法」しても無駄だが「バカに説法」しても無駄。それよりも、体調の問題や時事的なテーマに対する関心が薄れてきたこともあり、連載をやめた。



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 「戦えと言っていたのにお前は逃げるのか」と言われるかもしれない。いや、「戦うな」と言っているわけではない。私が戦うのをやめるだけで戦いたい人間は続ければいい。人間、歳をとれば丸くなるというが、単に気力がなくなるだけである。体も小さくなっていく。だったら、それに合わせたほうがいい。





■スケールダウンしよう



 私は今、ダイエットをしている。

しかしそれを公言するのはなにか嫌だし、そもそもダイエットという発想が嫌いである。将来のために現在を犠牲にするという発想は病んでいると思う。だから、ダイエットという言葉を使うのは適切ではない気がする。もっと積極的に「小さくなりたい」「スケールダウンしたい」「浅草にいるような小さい爺さんになりたい」という感じだ。



 私は50を超えてから若いときのような生活をしなくてもいいと思うようになった。ヤドカリだって住処を変える。まあ、ヤドカリは成長に伴い大きな貝を選ぶのだろうが、その逆をやればいい。少しずつ、小さなところに移っていく。



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 私はまず新聞や雑誌の連載をやめた。それで時間ができたので、散歩するようになった。すると体重も減った。いい感じの縮小スパイラルである。

さすがに身長は減らないが、それでも老人になれば皆、小さくなっていく。江戸時代の庶民の平均身長は男は157センチ、女は145センチくらいだった。人間は短い間に大きくなりすぎた。この先、バランスよく栄養を減らせば、人間は小さくなっていくはずである。皆が小さくなれば、食糧問題も住宅問題も解決する。逆に大きくなりすぎればホテルのベッドから足がはみ出るし、鴨居に頭をぶつける可能性もある。転倒時のリスクも大きい。



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 私の友人が90年代初頭にウィスコンシン大学に留学していたとき、アメリカ人の同級生が「ソニーのウォークマンよりアメリカのウォークマンのほうが大きい」と自慢したそうな。



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 日本には昔からでかいやつは怪しいという価値観がある。「バカの大足」「うどの大木」「大男総身に知恵が回りかね」といった言葉もある。その感覚はまっとうだと思う。道を歩いていても、すごく大きな人がいたら警戒してしまう。

一方、「山椒は小粒でもピリリと辛い」と言う言葉や一寸法師のような話もある。外国にも似たような話はあるような気もするが、それはそれで横に置いておく。



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 ダイエットしたところでモテるようになるわけではないが、いろいろなものを減らしていくこと自体に快感や面白さがある。おなかに10キロの無駄な脂肪がついている人は、常時米10キロを担いでいるようなものだ。それが減るだけで身も心も軽くなる。



 私の友人の小太りのドイツ人(40代)が池袋の東武デパートの日本酒コーナーに行くと、酒のつまみを物欲しげに見つめている黒縁の眼鏡をかけたデブがいたそうな。彼は自分のことを棚に上げて「キモっ」とつぶやきそうになったとのこと。



 私が「本気でそう思ったなら、君はやせていくんじゃないの」と言ったら、彼は「今すぐにやせたい」と答えた。



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 岡田斗司夫という人はよく知らないが、先日、ユーチューブに流れてきた動画を見た。岡田はダイエットをしてやせたが、その後、リバウンドしてしまった。それはダイエットに飽きてしまったからだと説明していた。私はなるほどと思った。

飽きなければ、そして楽しければダイエットは続く。なにかを犠牲にしたり、我慢したりするダイエットは続かない。ダイエットに成功している人は、それが楽しいからやっているのである。



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 ダイエットに限らず、小さくなる、スケールダウンする、シュリンクすること自体に快楽がある。モノを捨てたり、人間関係を整理したり、世を捨てるのも同じ。厭世主義にはマイナスのイメージがあるが、そこにはプラスの側面もある。pessimismをoptimistically、positivelyに捉えれば、見えてくるものもある。私は肉体的にも精神的にも小さな人間になりたい。



 



文:適菜収

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