何が起きるか予測がつかない。これまでのやり方が通用しない。

そんな時代だからこそ、硬直してしまいがちなアタマを柔らかくしてみましょう。あなたの人生が変わるきっかけになるかもしれない・・・そんな本がここにあります。「視点が変わる読書」連載第19回。中村結美著『ジツゴト』(キネマ旬報社)を紹介します。





「視点が変わる読書」第19回  虚構の世界に生きた人間の真実



■ドキュメンタリー映画「うしろから撮るな」の衝撃



 4月3日、新宿K’s cinemaで「うしろから撮るな」を見た。



 朝から雨が降る寒い日であったにもかかわらず、12時からの回は84席のシアターの六割方が埋まっていた。



 この映画の監督は脚本家、放送作家、テレビ・ディレクターとして活躍する中村結美。彼女にとって初めてとなる映画作品の被写体は実の父である俳優の織本順吉である。とはいえ、劇映画ではない。2015年5月から2019年2月までの約4年間、老いにより体の自由が効かなくなり、台詞覚えがおぼつかなくなりながらも92歳で亡くなる直前まで現役俳優を貫いた父の姿に自らのカメラで迫ったドキュメンタリーだ。



 織本順吉は稀代の名脇役として知られるが、いちばん私の印象に残っているのは「仁義なき戦い 完結編」の早川組組長・早川英男である。



 深作欣二監督の「仁義なき戦いシリーズ」は戦後間もなく始まった広島ヤクザの抗争を描いているが、五作目完結篇の舞台は1970年代の広島。

市民社会によるヤクザ敵視が厳しくなり、それをかわすため、広島の暴力団を統一して政治結社を立ち上げるような状況になった。しかし、表向きは政治結社でもヤクザ組織であることに変わりはなく、政治結社の会長の座をめぐり、まさに「仁義なき戦い」が繰り広げられるのだが、菅原文太、小林旭、宍戸錠、北大路欣也、松方弘樹らがギラギラした強烈な存在感を放つ中、織本は淡々と小物の組長を好演していた。



 この役者は目立たないのに存在感があるから不思議だ。



 中村はまず父親の最後の4年間をテレビのドキュメンタリー番組「老いてなお花となる最終章 俳優・織本順吉 父と娘 最後の記録」にまとめている。この作品は2020年3月にNHKBSスペシャルで放送されたが、あいにく私は見逃してしまった。



 それを今度は映画にして再度世に問おうというのだから、このテーマへの中村の執着は並々ならぬものがあるのだろう。



 「うしろから撮るな」は駅前で織本が誰かを待っているシーンから始まる。ガードレールに座ったり、うろうろ歩いたりする姿をカメラは追い、やがて車が近づいてくると、「ああ、あれだ」と言って、車に乗り込む。マネージャーの車らしい。



 車は撮影場所の寺に到着し、織本は法衣に着替える。風体は老住職そのものだが、台詞を忘れてまごついたり、監督に注意されているところをカメラは容赦なく捉えている。



 場面変わって、家の中。

織本が自分で血糖値を測っている。糖尿病なのだろう。ところが、いつも食後に血糖値を測ろうとしないため、中村に、「血糖値は食後も測って食前と比べなきゃだめ」と言われ、「測ることなんか簡単だ」と言い返すものの、結局測らず、怒りだし、しまいには泣きだしてしまう。



 この後も衣装合わせや撮影現場などにおける織本と家での織本の姿が交互に映し出され、観客は娘や妻の助けを借りながら仕事をし、生活している織本の状況を把握していく。





  『ジツゴト』は「うしろから撮るな」、「老いてなお花となる最終章 俳優・織本順吉 父と娘 最後の記録」のメイキングであり、カメラで撮り切れなかったもの、編集の都合で切ってしまって伝えられなかったものが詰まっている。



 本のまえがきの最初に中村は「ジツゴト」という言葉の意味を上げている。



 



1. 歌舞伎で、判断力を備え、人格的にすぐれた人物の精神や行動を写実的に表現する演技。また、その演出。



2. 真実であること。真剣であること。



 



 そして、こう続ける。



 



 ……地味だけど地味なまま、テレビという虚構の世界で、〝ジツゴト=写実の演技〟を極めようと最後の最後まであがいた一人の老人の最後の数年間を、そのまま〝ジツゴト=真実であること〟としてお届けしたい。

そう思ってこれを書かせていただいた。





 



■織本順吉という俳優の凄み



 ここで織本順吉という俳優について説明をしておこう。



 織本順吉の本名は中村正昭だが、結婚して中村姓になったのであり、旧姓は角田だ。角田正昭は昭和2年、神奈川県に生まれ、高校卒業後、大手電機メーカーを経て昭和20年に新協劇団に入団した。その後、岡田英次、西村晃、木村功らと劇団青俳を結成したが、昭和55年に劇団が解散した後は、フリーとなり、映画、テレビドラマなどで活躍。総出演作は2000本を超える。主な出演作には「仁義なき戦い 完結篇」、「男はつらいよ 寅次郎わすれな草」、「長七郎江戸日記」、「3年B組金八先生・第5シリーズ」、「やすらぎの郷」などがある。



 私生活では昭和35年に劇団青俳の劇団員だった中村矩子と結婚し、結美、菜美の二児をもうける。地道に淡々と脇役を演じ続けるような人物なのだから、家庭ではさぞいい父親だったのだろうと思うかもしれないが、さにあらず。



 映画では家族の写真とともに家庭の状況が紹介された。それによれば、昭和39年妻の矩子が家族の介護のために子供を連れて神戸の実家に戻ると、織本は一人東京に残り、以後25年間、家族とは別居生活となった。神戸の家が菓子屋を営んでいたこともあって、「そちらの生活はそちらで何とかしてくれ」と生活費は一切送らず、一年間に正月とお盆合わせて1週間程度しか帰らず、子供の運動会にも授業参観にも卒業式にも出席しなかったという。



 そればかりではない。映画に出てくる晩年住んでいる家は自然豊かなところなので、最後は妻とともに安心して暮らせる家を罪滅ぼしのために自分で建てたのかと思ったら、そうではなかった。



 『ジツゴト』によれば、自由業である織本はローンを組めないので、まず矩子が神戸の家を担保にローンを組んで那須に土地を買い、その次に神戸の家と土地を売ってその金で那須の土地を抵当から抜く。今度はその那須の土地を担保にローンを組み、家の建築資金を捻出する。といった具合に全て妻頼みだったのだ。



 しかも神戸の家を売って矩子が那須に来てみれば、家はまだ整地もされておらず、矩子は織本が探してきた自動車学校の合宿所で家が建つのを待たなければならなかった。織本は旅公演に出てしまい、引っ越し代も生活費も送ってこない。さらに厄介なことに、自宅の目の前の土地が織本の愛人の名義になっていることが発覚したのだ。つまり、織本は長年苦労をかけた妻が那須に家を建てて同居することを断った場合を想定して、愛人にも那須に土地を買わせていたのである。



 中村は神戸の家を売るという母に、本当に神戸を離れていいのか、父から離れて自由になる選択もあるのだと諭したが、母はチラつく女の影に、「ここまで我慢してきたのに、今さら父の自由にさせるのも癪にさわる」と女の意地を見せたのだった。



ところが那須に来てみれば、想像を上回る過酷な裏切りが待っていて、矩子は怒りと不安で発狂するような状況に陥ったという。



矩子は中村に言った。



 「あの人、人間やないで。人間の心がない」



 こうした家庭状況を知ると、中村が老いた父親の最後に自分のカメラで迫ったのは、俳優人生を貫いた父親への最後のはなむけなどという甘っちょろいものではなく、家族をないがしろにした父への復讐であることが分かってくる。



 実際中村は容赦ない。



 「朝5時に起き、身支度をする父、ズボンのボタンが留められないと地団太を踏んで癇癪を爆発させる」、「昼食後、突然立ち上がれなくなる。『引っ張ってきくれ』というので母が手を取ると、全く足に力が入らない様子」、「セリフがあやしく、監督が来てセリフを付け直す。『織本さんのセイリフから』とリテイク。また間違い、止められる。父の方から『語尾の言い方を変えてもいい?』と聞いたりしているが、覚えきれない言い訳のようだ」、「あのセリフ覚えが自慢の父が、しれっとカンペを要求する姿を目の当たりにして、ショックを受ける」……本の中では弱った父親の姿がこれでもかとさらされる。



 ところがそれが映像となると、織本は確かに老いた無様な姿を晒してはいるのだが、そこに確固たる意志が感じられるから不思議だ。



 台詞を間違えながら演じているところでも、杖をつきながらヨタヨタ歩いているところでも、おむつパンツを自分で穿いているところでも、出来ないことよりも、「俺はこうするのだ」という意志が際立つ。



 いちばんそれが感じられたのは、那須の自宅の庭を妻に手をとられながら歩いている時だ。後ろからカメラを向けている娘に向かい、織本は「うしろから撮るな!」と怒鳴る。



 この言葉の意味を中村は映画の中で父に問い、織本はこう答えている。



 「どういう死に方をするかわかないわけだよ。そうするとうしろから撮られてるその瞬間も、俺はある種死ぬ覚悟を持って、カメラの客観に入ってんのかなっていうね、そういう感じだと怖くなってくるんだよ自分が」



 何を言っているのか、よく分からない。しかし、ここに織本が俳優として大切にしてきた何かがあるような気がする。



■「父の死ぬ瞬間の、最期の呼吸が撮りたい」 



 「父の死ぬ瞬間の、最期の呼吸が撮りたい」――



 それが、老いた父を撮影し始めた時、中村が終着点として願っていたことだったという。何故なら、織本は常々「演技は呼吸だ」と言い続けてきたからである。



 映画やテレビという虚構の世界で、そこに生きて生活している人のように存在するためにはどうしたらいいかを考え続けた結果、織本が見つけた極意が、「生きて存在するとは何か、それは呼吸することだ」ということだったのだ。



 織本は2019年1月5日、那須の自宅で倒れて病院に救急搬送され、そのまま入院となった。いっときは回復の兆候もみられたが、3月18日、老衰のため永眠した。



 果たして中村は父の最期の呼吸を撮ることができたのか――



 それを知りたい方は是非「うしろから撮るな」を見ていただきたい。





文:緒形圭子

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