20代にして年収6000万円を稼ぎ、イケイケだった広告デザイナーはその後、終わりのない不況と業界の斜陽に巻き込まれ、のたうち回ることに。装丁家の斉藤啓氏が、その「想定外」な仕事人生を描きおろしイラストとともにつづる連載コラム。

第2回は、東京そして“ムサビ”でぶち当たった壁についてお届けします。



■17歳、かつてぼくは天才だった







 1986年春、羽田モノレールの車窓に流れる鉛色の京浜工業地帯の巨大工場群。



 モクモクと白煙をあげながらディストピアSFの未来都市のように妖しく佇むそれを「これが東京か…!」とかぶりつきで眺めながら胸をドキドキさせている少年こそ、地元札幌の高校の卒業式も待たずに喰い気味で東京に飛んできた17歳のぼくだ。



 武蔵野美術大学視覚伝達デザイン科、当時合格倍率25倍の人気&難関学科。



 その中でも1ケタ数名しかいない現役合格者となったぼく。横尾忠則の作品に憧れて美大受験を決め実技練習を始めたのは高3の秋と、ちと遅めでしたが、通常1~数年かけて到達するデッサンと平面構成(ポスターカラー等で描くデザイン画)の合格ラインをぼくは3か月そこそこで超えてきた。



 あれ、やっぱ自分って天才なのでは? その自信にはちょっとした根拠もありました。



 紙と鉛筆があれば、いや黒板とチョークでも絵筆とキャンバスでも板と彫刻刀でもなんでもかまわない。



 とにかく絵を描きさえすれば、あっという間に周りに人だかりを集め口々にチヤホヤされる、それがぼくの「固有魔法」だからです。この魔法を思うまま発動し、小中高すべてで学校で一番絵がうまい子という「初期設定」も獲得済み。あとはこのチート能力をここ東京でさらにレベルアップし、超カッコイイ作品を作って世界中からチヤホヤされるのみだ!





■まさかのマッチング率=ゼロ



 大学初日、視覚伝達デザイン科(以下視デと略す)の講義室内は美大受験勝ち組の自信と熱気で一種の集団躁状態の中、最初の授業がスタート。それは新入生全員が「将来の夢」を一人一人発表してゆくというもの。

そこで新入生たちが目を輝かせ頬を上気させながら語る「夢」、「夢」、そしてまた「夢」。そのあまりの想定外っぷりにぼくは愕然としました。



「ぜったい電通に入る!って今から宣言しとくわ!」って頭掻きながらテヘペロするやつだの、「大企業のデザイン部に就職したい」だの、「ファッションブランドの広報部」だの、「化粧品会社の宣伝部」だの。誰かが発表するたびに拍手が起こり、ひとしきりディスカッションが盛り上がる。そしてそれを うんうん と頷きながら眩しそうに頼もしそうに見守る教授陣。



「ハァ?こいつら正気か?」



 戸惑いから絶望、そして憤怒でぼくの顔からみるみる生気が抜けてゆきます。だってこちとら世界的天才芸術家になって世界中にチヤホヤされる、そのためだけにここにやってきたのだから。美アートをつくる術テクニックを教えるのが美術大学、と信じきっていたぼくの目の前で行われているのは「就職志望先発表会」。アートにシューショクなんてカンケーないし、テンツーとかハクポートーっていったい何の麻雀の役だよ!?



 一瞬で思考回路が凍りついてしまったぼくに「夢」を発表する番が。



「デ、デザインをアートにまで昇華した…よよ横尾忠則のような…い今の若い人は知らないですかね横尾忠則あはあはは…」と、この講義室で一番若いぼくはカタコトで続ける。静まり返る講義室にいる全員が、無知なド素人がマグレ合格で恥さらしにやってきやがったって目をしてた、気がした。



「み、見たこともないデザインで…」話の途中に、カレ現役らしいよ。

ピュアな子だよね。みたいな囁きが聞こえた、気がした。「…世、世界を変えてみたいです…」最後は蚊の鳴くような小声でフェード・アウト。まばらな拍手と微妙な雰囲気の中、この話題はこれ以上深まらず、すぐに次の人の番へ。



 …おのれ恥を…、天才芸術家のこのおれに生き恥をかかせおってぇえええええ
この低俗で世慣れくさった資本主義のイヌどもが!!



 今考えると、彼らはまったく低俗でもイヌでもなんでもなく、ただ自分たちの現状や立場を正しく認識していただけのこと。浪人生活を美大予備校で実技を磨くことに費やし、同じ境遇の仲間と交わり、受験の傾向と対策や将来の就職活動先も見据えつつここに来た。なんてちゃんとした若者たちだったのか! 



 後に知るのですがここ視デと多摩美術大学グラフィックデザイン科は「電通・博報堂への登竜門」としての双璧。教授陣も「商業デザイナー」を輩出するためモチベづけなり指導なりを行うのはごく当然。要は生徒と教授陣全員がこの視デでやるべきこととのマッチング率が高かったとゆうこと。ただ一人「バリバリのアーチスト志望」のぼくを除いては。





■オトナはわかってくれない!







 その後も商業デザインの座学、鉛筆デッサンなどの実技が続き、時には~創造力を高めよう~的な意識高い系幼稚園児の情操教育もどきまでやらされて超ウンザリ。



 こんな茶番でぼくの「固有魔法」は磨かれない。

天才芸術家に近づくどころか逆にどんどん凡人に矯正されてそうな恐怖。このぬるったい授業をインテリ気取りで指導する教授陣はもはや全員敵認定済み。



 そもそもプロとしてカッコイイデザインを作れないから教員とかやってんだろマジでダッせえ。そして与えられたカリキュラムに迷いも衒いも持たず打ち込んでいるクラスメイトたちにも無性に腹が立つ。チャラチャラ楽しそうにやりやがってザコどもが、ぼくはお前らとは違う、決して飼い慣らされないのだぞ!



 とにかくなにがなんでも「自分だけが特別」でなければいかんため、西武線でうちから一本の池袋リブロポートという書店をぼくの頭脳にすることにしました。



 画集や美術書で最新アートムーブメントをベンキョーし、サブカル思想誌を読み漁り最新の概念を脳に植え付け理論武装。流行りのニューアカデミズム本はチンプンカンプンだったので大学構内で小脇に抱えるだけの小物として活用するとして、はては革◯ルやオ◯ム本にまで手を広げ…。反体制・反権力・社会革命を謳うたいそうご立派な思想と、ごく個人的なぼくの疎外感が、ものすごいスピードでガワ変形合体を果たしていきました(この両者、実にマッチングがいい)。



 頭がパンパン、目がドンギマり、ありえない角度で斜に構えるようになったぼくは、負のオーラをそこら中に撒き散らす存在に。もう周囲の誰からも相手にされず、教授たちの目もどんどん冷淡になってゆく。それをさらに先回りして嘲笑する悪循環。授業もだんだん休みがちに。



 カーテンを閉め切った暗い四畳半の部屋、敷きっぱなしのジメジメ布団の上に体育座りでじっと膝を抱える。天才芸術家になるはずだったのに。アートの動向も最新思想もブチこめるだけブチこんだのに。カッコイイデザインを作ってみんなにチヤホヤされたかっただけなのに、いったいなぜこんなことに…。



 いやちがう! そう、これは商業主義に魂を売った教授陣と受験地獄かつ学歴至上主義で従順な指示待ち人間と堕した生徒等の歪んだ相互依存、いやむしろ悪しき因習と既得権益が蔓延する美術アカデミズムの構造的問題、そもそもの諸悪の根源は日本国とゆう腐り切った社会システムそのものであり、いや戦後米国に支配され隷属した結果拝金主義がスキゾの構造と力がサイバーでパンクしてチベットがモーツァルトだから、ええと、一言でまとめると…、



「おれ以外全員バカで、オトナは全員クソ!」、



 こう思わなきゃもうこれ以上自分のメンタルが守れなかった。ぜんぶ周りのせいにして、自分こそが無価値なザコである現実から全力で目を逸らしてたんです。





■さらば愛しきムサビ







 ずっと授業も出ぬまま東京の街を彷徨うぼく。街角の若い画家のエキシビジョンに吸い込まれる。画家本人が気さくに図録にサインしてくれたことをいいことに、何度も何度も通っては作品について質問をぶつけ、それにひとつひとつ誠実に答えてくれることが嬉しくて、ついついぼくのニッチもサッチもいかない状況を吐露してしまった時、



「周りなんてどうでもいい。キミはキミの場所でキミの絵を描けばいいんだ」



 この言葉がハラにスッと落ちたぼくの心は決まりました。そのエキシビジョンのすぐのちフレッシュな旋風とヘビー級の衝撃で日本の美術界をポップかつラディカルに刷新してしまう若き大竹伸朗さんの言葉です。



 中退届けを提出に行った先は、あれは教授だったか助教授だったか学生相談だったか…もう忘れてしまいましたが、当然とはいえそれは冷たく事務的に処理され、通学総日数2ヶ月に満たないぼくの大学生活は終わりを告げたのでした。



「キミの場所、か…」。アルバイトをしながら部屋で絵を描く日々がはじまりました。スマホもガラケーも無い時代、アパートの共同電話が鳴る。大家さんが取り次いだ受話器のむこうは同い年の女友達みっちゃん。この春に女子美術短大を卒業のち広告代理店に入社し順風満帆な社会人生活を送ってると聞いてましたが開口一番、「斉藤!毎日仕事忙しくてやっばいの!ヒマなら手伝いに来てくれないかな?」。



 この一本の電話でぼくの運命は想定外に変わることになる。



絵と文:斉藤啓

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