森博嗣先生が日々巡らせておられる思索の数々。できるだけ取りこぼさず、言葉の結晶として残したい。
第4回 義務と責任は誰にもある?
【権利には義務が伴う?】
これは、たびたび耳にする言葉だ。つまり、「権利を主張するのなら、それに伴う義務を果たしなさい」との言い分。世の中には、なにかというと権利を主張する人たちがいて、しかもその主張のし方があまりにも横柄で下品に見えてしまう場面が多いため、そんな態度が恥ずかしいものだと子供に教えるために、権利と義務はセットになっているとの理屈を編み出した。ようするに、「交換」だというわけだ。これは一理ある。
なにかを欲しかったら、なにかを差し出しなさい、という交渉であり、そのなにかとは物品、エネルギィ、信頼関係など多岐にわたるので、ある人には明らかに価値があるものでも、別の人には目に見えず、存在すら信じられない、という場合も少なくない。だから、一方が交換だと思っていても、他方はもらって当然だ、と観測している。そんな偏った観測をする人たちは、権利は生まれたときから自分のものだ、と声高に主張するだろう。
基本的人権は、憲法で保障されている。「基本的」とは、すべての人が無条件に持っているもの、と解釈できる。つまり、義務は伴わない。納税の義務とか、教育の義務とか、労働の義務などとは無関係に、しかも万人が同等に持つべきものとされている。
そもそも、納税や教育や労働は、義務とはいえない。それをしていない人たちは沢山いる。日本人が収めた税金を外国人のために使うのはおかしい、と主張する人の中には、実際に税金を払っていない人、払っていても少額である人が大勢含まれているだろう。もちろん、だからといって、そんな主張をするな、とはいえない。どんな主張も自由だし、それこそ、主張する権利が誰にもある。
ただ、そういう話をするなら、本なんか読まない、図書館を利用したことはない、という大勢の日本人がいるはずだが、多額の税金が図書館の建設、運営に使われている。僕は万博には興味がないけれど、僕が払った税金の一部が万博にも使われている。
要約すると、義務とは無関係に権利があり、また、なにも貢献していない人でも、いかなる主張も自由にできる、というのが正しい理屈である。とはいえ、もちろん人情的なものがあって、特に日本人はこれに拘る。「働かざるもの食うべからず」にも通じる道徳感というか、そんな社会規範が広く人々を支配しているからだ。たとえば、周囲からの信頼を得ていない人間が、どんなに偉そうなことをいっても、まともに相手にしてもらえない。そういった共同体の不文律がたしかに存在している。そんな約束をした覚えはないよ、といっても無駄だ。法律だって、契約も約束もした覚えはないが、日本に生まれただけで、これを守る義務が生じる。したがって、これも一理ある。
【責任はどうして生じるのか?】
義務に似ているものとして、「責任」がある。よく使われる言葉だ。
また、最近多いのは、ちょっとした悪事を撮影してネットで晒すような行為。マスコミもよく取り上げている。大勢が集ってバッシングするか、「やめましょう」とお願いするだけで、安心するのだろうか。僕は、「罪を犯したことがない者がまず石を投げなさい」という聖書の言葉を連想してしまう。誰もが小さな罪を自覚した経験があるはずだから、他者のことを責める(石を投げる)まえに考えてみてはどうか、といった気づきを与える言葉である。かといって、誰もが罪を犯しているのだから、他者の罪を問う権利はない、と解釈してしまうと、ちょっとずれているかも。イエスはそこまではいっていない。各自の「自覚」こそが大事だ、という教えだと僕は受け止めている。
「義務」というのは、外力によって生じるもので、一般になんらかの罰によって効力を発揮する。
一方、「責任」には罰則がない。責任は規定されていない。多分に自発的なものであり、各自が自覚するものだ。たとえば、家族のために尽くす責任がある、と感じるし、一度口にしたことは簡単に覆せないと感じる。昔はこれを義理とか道義といった。自分が目指す自己理想によって発生し、またグループ内でもそれを共有するけれど、広く社会全体に対する責任となると、かなり曖昧なものとなってしまうのは、やはり自覚的なものであり、他者には期待することはできても、強制できないものだからだろうか。
というわけで、他者に向かって「お前の責任だ」「責任を取ってくれ」と訴えるのは、少々いきすぎているように僕は感じる。
【無責任老人になりたくて】
募集で頂いた質問に、このようなものがあった。「私もわりと静かに生きて考えていますが、静かに生きて考えられない人、例えばガザについてはどうお考えでしょうか。森先生の政治的な姿勢を無責任だなと思うようになりました」
まず断言できるが、僕は政治的に無責任である。日本の政治に責任を感じたことは一度もない。若いときには、周囲に自分の考えを伝えれば、多少は影響があるかと思ったけれど、なにを願っても、なにを訴えても、ほぼ影響しないことがわかった。僕の意見は抽象的すぎるからかもしれないな、と分析したが、反省はしていない。
ただ、ガザでもウクライナでもアメリカでもロシアでも、静かに生きて考えられない人が大勢いるし、もちろんなかにはそれができる人もいるはずだ、と想像する。そして、世界一の権力者であるアメリカの大統領でさえ、紛争をなくすことができない事実がある。何故なら、大多数の人たちが、他所の戦争を許容しているからだ。もし、あなたが許容できないのならば、あるいは責任を感じるのならば、どうしたら良いかと考えるしかないし、その考えに基づいて行動するしかない。
「声を上げなければならない」という声を上げるだけの人がたまにいる。周りのみんなの同調を誘っているようだが、しかし、多くの戦争や紛争は、たいていこの仕組みで起こる。「団結して戦おう!」と拳を振り上げる。おそらく、そうすることが自分の責任であり、それに賛同しない人は無責任だ、と信じているのだろう。それも一理ある。けれども、そういった責任感によって、人々は集結し、あるいは扇動され、最後には銃を手にする。
「戦おう!」と「戦争反対!」は、両極にあって、実は非常に類似しているように僕には見える。紙一重だといっても良いと思える。
「静かに生きる」とは、その両極のどちらでもない。すなわち、なにものにも拘らず、なにものにも口を出さず、群れから離れる。群れから離れることは無責任である。責任とは、そもそも人々の群れの中で生じる価値判断だからだ。
もちろん、若い人ほど群れから離れることが難しい。だから、若い人ほど責任を背負っているといえる。僕もそうだった。いろいろな責任を持たされた。なにしろ、責任を持つことでしかお金が稼げないからだ。仕事はすべて、責任を背負うことであり、その重さによって賃金が支払われる。僕が無責任になれたのは、仕事から引退したからだし、子育ても終わり、介護も終わったあとだ。今は犬の世話が最大の責任となっている。
あえて書くなら、「皆さん、60歳を過ぎたら、もっと無責任になったら」くらいかな。どんな役職も放棄し、若者にも意見しない。ただ、黙って微笑むだけ。教えてくれとせがまれたときだけ答える。そういう無責任な老人が増えれば、きっと良い社会になるだろう。
【美味しかったら黙って全部食べろ】
いつだったか、奥様(あえて敬称)が入院したとき、長女が夕食を作ってくれた。そのとき、食事に対して「美味しい」といってほしい、と彼女にいわれた。これは、長女自身に対してではなく、彼女の母を気遣った発言だった。僕の世代は、「男は食べ物に対して美味いとか不味いとかいうな」と教えられたのだ。美味しければ食べる。不味くても我慢して食べる。「美味い美味い」などと下品なことは口にするな、というのが日本古来のマナーだったのである。しかし、今はそうではない。
そういう話をするなら、奥様が掃除をしたあとには、「綺麗になったね」といわないといけないのか。僕が庭掃除をしたあと、それをいわれたことはないが……。
今の若者たちは、こういう他者評価を期待し、また他者に感謝しなければならない「責任」を感じているのだろう、と想像する。そんな責任を背負って、人間関係の距離感を測っているのかなあ、と思いを巡らしてしまった。良かった、責任から解放されて……。
文:森博嗣
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