社会科入試問題より
問題:下線部(ケ)について――。海外との通交が制限された江戸時代は、幕府や藩にとって都合のよい朱子学という思想が重視されます。朱子学は、(ケ)孔子を祖とする儒教をもとに宋代に誕生したもので、身分の秩序が大事だと説いています。孔子を祖とする儒教と関連のある言葉としてもっとも適切なものを次のあ~えの中から1つ選び、記号で答えなさい。
あ「はじめに神は天と地とを創造された。…」
い「慈悲あまねく慈愛深き神の御名において、…」
う「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。…」
え「子曰く、学びて時に之を習う。亦た説ばしからずや。…」
「答え」
え
■「朱子学」とは余りにも有名すぎる冒頭文なので、非常に解きやすい問題ですね。子曰く学びて時に之を習う、亦た説ばしからずや。これはもう、どう考えても論語の「学而」の冒頭部分です。そのあと「朋遠方より来たる有り、亦た説ばしからずや。
「朋有り遠方より来たる」の読み方は新しいので(それとて古いけど)、古いほうの「朋遠方より来たる有り」を採用しました。
さて、今回はですね~、問題文にもあるこちらを取り上げます。
曰く!「朱子学とは何ぞや?」というわけです。
「朱子学」は江戸時代を学ぶとよく聞く言葉ですが「どんな学問なのか一言で教えて下さい」と言われたら結構難しいのではないでしょうか。
極めて簡単に言えば「(南宋の)朱熹が集大成した学問」と言えましょう。
だから「朱子(朱熹)の学問=朱子学」ですものね。でもそれじゃあ答えになってません。ということで、朱子学とはどんなものなのか、なぜ為政者たちに大切にされたのか、大まかに見てみましょう!
■儒学の流れ朱子学は儒教の一派です。そもそも儒教は古代中国の聖王・尭、舜、周の政治を理想(の時代)とする思想です。
覇道ではなく「徳・仁・(身分年齢の上下も含んだ)礼儀・祭祀を重んじ従い、自らそれを修め実践して生きることを目標とした」という感じですね。
そして「周」の国が最もそれに成功して素晴らしい治世だったので理想とされ、「周(特に建国~最盛期)の政治」を見習い、乱世を平らかにしようとしたのです。
紀元前500年頃、春秋時代の孔子が開きました。この儒教に関する学問が儒学です。
儒学は孔子以来、一本で連綿と続いていると思われがちですが、歴史的に見ると実は「漢~唐の時代まで」「宋代以降」の2つの流れに大別できるんですね。
どういうことかと言うと、解釈や学問の仕方がかなり変わったのです。
宋の時代以前、特に漢~唐にかけては「漢唐訓詁(かんとうくんこ)」、いわゆる「漢学(かんがく)」と呼ばれる学問の仕方でした。
五経や論語の訓詁注釈(=古字句の読み・解釈)を中心とし、儒教の聖典たちを「正しく理解するため」のやり方です。
ここで「論語」について少々。
おや?論語が別枠になっていますね。でも漢~唐代はそうだったんですよ。
なぜなら「論語は漢代初期にやっと集大成されたもの(であろうとされてる)」だからです。
戦国時代は楽経も含めた六経が重視されていましたが、楽経は早くに失われ五経になりました。そして唐の太宗が「(儒学で最重要なのは)五経=詩経・書経・易経・礼記・春秋」と決めたことの影響は計り知れなかったでしょう。
論語は孔子と弟子たちの問答集=孔子の考えや言動が最もわかるというこで、成立当初から「五経と並ぶ」儒学の重要テキストと目されていました。
しかしあまりにも基本中の基本すぎて、重要以前の問題だったと思われす。
なにしろ中流以上の家庭では閭学(りょがく)・社学・学館(今の小学校のようなもの)で、既に児童に「シェー・アル・シー・シー・ツ(学んで時に之を習う…)」と論語を丸暗記させていたのですから。
平仮名を覚えるぐらいの感じだったでしょうから、聖典以前の感覚でしょう。
■宋代の儒学=宋代性理学(宋学)ところが宋の時代になると状況は一変します。仏教、主に禅宗の影響を受けるようになり、「儒教を哲学的に考えよう」となったのです。道・理・気・性などで人と世界の関係、あり方を説こうとしました。これを「宋学(宋代性理学)」と言います。
■朱子学の誕生 そしてこの宋学を集大成したのが南宋の朱熹でした。「朱子学」の誕生です。
朱熹(朱子)はそれまで「公式的な儒学の正典(カノン)は五経」とされていたものに、五経を学ぶ前に修めるものとして、新たに4つ加え定めました。それが「四書(大学・論語・孟子・中庸)」です。
これにより「儒学の正典=四書五経」となりました。
やっと「論語が聖典に仲間入り」しましたね。
更に朱熹は「四書集注(ししょしっちゅう)」を書き、「儒学=政治・道徳の学問である」としました。
■元の時代、遂に朱子学は政治・為政者の学問にモンゴル民族によって打ち立てられた「元」は、最初は科挙(官吏登用試験)制度。儒学の四書五経を丸暗記せねば、受験レベルにすら達しない筆記試験。
特に「上級官吏」になるには時を経る中で、合格が必須となっていきます科挙制度誕生の587年・隋~1904年・清末まで、1300年以上の長きに渡り「世界最先端の画期的な試験制度&方法」だったことは特筆&注目に値します)を廃止していましたが、宮廷運営や政治に慣れている漢人の有能な官吏を得るにはやはり必要と認め、施行回数は少ないですが復活させます。
その際、科挙に使用する注釈として、「十三経の注釈・朱子学系統の注釈」の2つを採用したことにより、一気に朱子学は「科挙の学問=政治の学問」となり、朱子学の体制教学化が進みました。
そして以後、辛亥革命で清王朝が倒れるまで歴代王朝と隣国の朝鮮王朝で科挙の学問となり、ひいては日本でも江戸幕府が倒れるまで「幕府の正學」とされました。
「科挙」については次回、書きたいと思います。
■四書の「大学」は仏教の般若心経のようなもの四書の最初に学ぶとされる「大学」は、「礼記」という大部の書の一篇です。
僅か1753字、字種は394種。400字詰め原稿用紙4枚半にも満たぬ中に、最も良く儒教の政治思想の根幹を組織的、且つ極めて分かりやすく書いてあると言われています。
そして「五経以前の一番最初に学ぶ書物」とされたことから「儒学=朱子学の基本中の基本」とされ、極めて大切にされました。
■そんなにも大事にされた「大学」とは?儒学や儒教と聞くと「うへぇ難しそう」と思うかもしれませんが、この「大学」はそんなことはありません。二宮金次郎少年が歩きながら読んでいたほど、子供にもわかる平易な文、内容なのです。ふふっ、彼が読んでいるのは論語じゃないんですよ。
「修身・斉家・治国・平天下」は聞いたことがあるのではないでしょうか。
これは儒教の目的であり、また「大学」にも書かれています。そもそも儒学の思想は「自分自身(時代的に為政者側)=身近なものから始め、遠く(庶民=時代的に被支配者側)に及ぼす」ですからね。
「大学」の要旨は「三綱領八条目」に凝縮され、そこにこそ、儒教の目的が入っています。
「三綱領=明徳・新(親)民・止至善、八条目=格物・致知・誠意・正心・修身・斉家・治国・平天下」要するに、己を修めて人を治め、学問をもって己の明徳を明らかにし、これを天下国家に明らかにするというわけです。
えっ?わかりにくい?
この部分ゆえに「政治の学問」とされた大事な部分なので、もうちょっと砕くと「天下の本(もと)は国にあるため、人君たちは明徳を明らかにしようと一国の人々を教化し治め、善行させる。
国の本は家にある。
自己を修めるなら、その心を正しくせよ。そうするには心の発する意について、誠実であれ。誠実であるにはまず学問をして善悪の分別を間違えぬように。それには礼・楽・書・御・射・数を学び極めよ」…ということなのです。(長くて申し訳ないですが…)
■だからこそ、朱子学(儒学)は為政者に大切にされたさて、読んでいて気付きましたか?
はい、出ました!「長幼」、その通りです!
「長幼尊卑を守り」は徳川家康が最も重視したことの一つ「長幼の序」のことも含みます。先に生まれたのか(長子)、後から生まれたのか(それより幼い)。
そして「正室の生まれ」なのか「妾腹」なのか…これが「尊卑」になります。
だから武家には「最初に生まれた長男」なのに「庶」長子の坊やがいるのです。べつに庶民から生まれた子ではなく「妾腹」から生まれたからこの言い方をするわけで、うまくそのまま正室に男子が生まれなければ「嫡子」になれますが、後から生まれると「兄は部屋住みか家臣並み扱いで、弟が嫡子」と立場逆転してしまいます。
そしてこの「長幼尊卑を守る」は中国朝鮮の各王朝、日本の江戸幕府において、小さくは個人の家、大きくは国や藩全体、幕府・日本全体として、「身分上下の礼を守る=家や国の安泰の根幹である」として捉えられるようになります。
だからこそ、儒学の主流となった朱子学は「為政者の学問」として大切にされ、国の基本とされたのでした。