江戸時代は徳川家康が江戸に幕府を開いた1603年に始まり、15代将軍慶喜が大政奉還する1867年まで、265年にわたって続きます。鎌倉時代は約150年間、室町時代は237年間ですから、これを上回る長期政権となりました。
この間に家康の子孫14人が将軍の座につきましたが、このうち少なくとも4人が同じ病気で亡くなっています。当時は原因も治療法もわからない難病でした。
その一人、3代将軍家光はもともと体が弱く、食が細かったと伝えられています。乳母である春日局は大層心配し、あれこれ手を尽くしました。その一つが七色飯です。「ただお命をつなぐものの第一は飯なり(生きていくうえでもっとも大切なのはご飯である)」と考えていた春日局は、麦、粟、抹茶、小豆などを炊き込んだ7種類のご飯を用意させ、家光が楽しく食事ができるようにはからいました。
しかし家光は24歳で謎の病気を発症し、医師らの努力もむなしく48歳で亡くなります。
その病気こそ脚気でした。疲れやだるさ、手足のしびれ、むくみなどが次第に強くなり、悪化すると心臓の機能が低下して心不全で死亡します。
世界でもアジアの稲作地帯に特有の病気で、患者の大部分が日本で発生していました。その犯人が白米です。ビタミンB1は玄米や雑穀に多く含まれ、玄米を精米して白米にすると大きく減ってしまいます。図11を見てください。当時の人々は米を一日に5合食べていました。玄米を5合食べるとビタミンB1を約3ミリグラム摂ることができますが、白米5合では0・6ミリグラムにとどまります。現代の摂取基準によると、18~49歳の男性は一日にビタミンB1が1・4ミリグラム必要なので、白米5合ではとても足りません。
玄米は白米とくらべて栄養成分が豊富です。100gあたりで比較する と、玄米には食物繊維が白米の6倍、不足すると脚気を招くビタミ ンB1が5倍多く含まれています。 ※mgは1000分の1g ※表示されている値は、可食部100gあたりに含まれる成分を表して いる。 (文部科学省食品成分データベースより)平安時代に貴族に広がった脚気は、室町時代には減っていました。
太平の世が続いて社会が安定すると、新田開発と稲の品種改良が進み、米の生産量が急速に増えました。また、それまで臼と杵で精米していたのが、中国大陸から足踏み式の唐臼という石臼が伝わり、さらに江戸時代中期になると水車を使うようになって精米効率が大きく高まります。これにより白米を食べる習慣が江戸、大坂など都市部の庶民に一気に広がりました。「大坂」は明治初期まで使われていた表記で、土がつくのは縁起が悪いとして「大阪」と書くようになったそうです。相撲で負けることを「土がつく」というからでしょうか。
現代のように決まった分量の米と水を釜に入れて加熱し、水分を米にすべて吸わせる炊きかたをするようになったのも江戸時代です。古代までさかのぼると、米はお粥や雑炊にするか、おこわのように蒸して食べるのが普通でした。米をゆでることもあり、鍋に水を多めに入れて米を加え、沸騰したら余分な湯を捨てて食べていました。
江戸時代に入り、誰もが米を食べるようになると、おいしさの追求が始まります。やがて、炊き上げて蒸らすことで、ご飯の甘みと、もっちりとした食感を引き出す、現代に通じる炊きかたが開発されました。
白米は玄米や麦ご飯とくらべて消化がよく、冷めてもおいしく食べられます。忙しい職人さん、農家の人、産業の発達によって江戸の町に増えた商人たちにとってありがたい習慣でした。
東海道、中山道などの五街道が整備されたことで人の往来が活発になり、おにぎり弁当も普及しました。農民も田畑におにぎりを持参したようです。元禄時代、1700年ごろには浅草海苔の養殖が始まり、おにぎりを海苔で巻くようになったと伝えられています。醤油、砂糖、昆布、鰹節も広く使われるようになりました。蕎麦やうどんを醤油で味つけして食べるようになるのは元禄時代を過ぎてからです。それまでは味噌だれが一般的でした。
職人さんは作業の合間に何度も軽食を取るため、すぐ食べられる蕎麦や鮨、天ぷらなどが手軽なファストフードとして人気になります。
飲食店は屋台と行商がほとんどで、幕末の記録によると江戸の町全体で蕎麦屋が3760軒あり、鮨屋はその倍の7000軒以上、逆にうどん屋は数えるほどしかありませんでした。図12は江戸時代後期に成立した『守貞漫稿』に描かれた鮨売りの姿です。関西風の押し鮓は姿を消し、にぎり鮨ばかりで、人気のネタはコハダ、マグロ、タコなど。一番高いのが卵焼きでした。

肉食は表向きは禁止でしたが、「薬」として食べるのは黙認されていました。1690年には、現在も近江牛の産地である彦根藩が牛肉の味噌漬けを考案し、滋養強壮の薬として販売を開始しました。馬肉をサクラ、猪肉をボタン、鹿肉をモミジとする風流な呼び名も生まれ、熊、タヌキ、ウサギ、ヒキガエルなどの肉を売る店が多数あらわれます。
幕末には鯨肉専門店も開業しました。江戸では毎年12月13日にすす払いを行い、終わると塩漬けの鯨肉を入れた汁物を食べるのがならわしだったそうです。消費量では魚の比ではなかったものの、肉を「薬」ではなく、「楽しみ」のために食べる習慣が広がり始めていました。
ところが、活気にあふれる江戸の町に、次第に「江戸わずらい」と呼ばれる奇病が繰り返し流行するようになりました。脚気が庶民にも広がったのです。江戸わずらいといわれたのは、地方の人が江戸に働きに来ると発病し、地方に戻ると治ったからです。この時代になっても、地方では玄米か、雑穀と野菜を混ぜて炊いた米を食べていました。
それにしても、ちょっと不思議に思いませんか? 現代の日本人は白米ばかり食べているのに、なぜ脚気にならないのでしょうか。それは、豚肉、レバー、豆などのおかずからビタミンB1を十分に摂取できているからです。これに対して、昔の人はご飯をしっかり食べて、おかずが少ない傾向がありました。そのため、ご飯を白米にしてしまうとビタミンB1が不足しやすかったのです。
■僧の姿をしていた江戸の医師食生活で脚気を改善できることに気づいていた医師もいました。
江戸時代には社会に大きな変化がありました。身分制度が確立されたことと、鎖国政策を取ったことです。安土桃山時代までは兼業農家の武士が少なくありませんでしたが、江戸時代になると武士は武士、農民は農民と定められ、生まれたときに身分が決まるようになりました。
唯一の例外が医師です。高名な医師に弟子入りし、10~20年間修業して師匠に認められれば、生まれをとわず、誰でも医師になることができました。身分制度からはずれ、世俗を離れた存在であったため、医師らは頭をそり、僧の姿をしていました。そのため、男子禁制だった江戸城の大奥にも治療のために出入りでき、地位の高い武家の病気をいやした医師のなかには破格の出世をとげる者もありました。
治療の中心は漢方薬と鍼です。この時代になると、中国大陸の医学をそのままの形で実施するのではなく、日本の風土と日本人の体に合うよう改めたうえで、国内で採集した薬草を使って治療するようになっていました。現在も広く行われている漢方治療は日本で独自に発展したものです。全国各地で薬草の栽培も始まりました。
しかし、感染症に対する治療は思うにまかせません。疱瘡と呼ばれた天然痘が流行するたびに、昔ながらのまじないが行われました。この時代になると天然痘はすっかり日本に根づき、頻繁に発生するようになっていました。
天然痘を起こす悪い神様は赤い色が苦手だとか、逆に赤色を見ると機嫌が良くなると考えられていたことから、患者も家族も赤い色の着物を身につけ、部屋に赤い屏風をめぐらして、子どもには赤いおもちゃを与えました。現代まで受け継がれる郷土玩具のなかにも、もとは天然痘よけに作られたものがあります。図13は福島県の会津地方に伝わる「赤べこ」です。赤い張り子の牛で、子どもが天然痘にかからないようにとの願いがこめられています。

天然痘に負けない人物として、源為朝や、おとぎ話の桃太郎、金太郎らを赤を基調に描いた絵も人気でした。このうち桃太郎の赤絵を図14にかかげます。歌舞伎役者のような桃太郎が、おともの犬を連れていますね。

為朝は平安時代後期の武将で、弓の名人でした。伊豆大島に流罪になった為朝が、周辺の島々を平定しながら八丈島に渡ったところ、天然痘の神様が住んでいたので従わせたというのです。
八丈島にはそれまで天然痘の発生がなかったことから生まれた伝説ですが、種明かしをすると、八丈島が離れ小島だったために、天然痘ウイルスが侵入していなかったのです。しかし、この伝説は当時広く知られていたため、天然痘がはやるたびに為朝をデザインした絵が飛ぶように売れ、お見舞いとして使われました。
(連載第12回へつづく)