3.11震災直後の支援に対する感謝を伝えるため、公募により集められた460編の詩作品から選ばれた、当時小学5年生だった男の子の作品を紹介します。『ありがとう』 菊田 心

文房具ありがとう
えんぴつ、分度き、コンパス大切にします。

花のなえありがとう
お母さんとはちに植えました。
花が咲くのが楽しみです。

うちわありがとう
あつい時うちわであおいでいます。

くつをありがとう
サッカーの時とってもけりやすくて、
いっしょうけんめい走っています。

クッキーありがとう
家でおいしく食べました。

さんこう書ありがとう
勉強これからがんばります。

図書カードありがとう
本をたくさん買いました。

やきそば作ってくれてありがとう
おいしくいっぱい食べました。

教室にせん風機ありがとう
これで勉強はかどります。

応援の言葉ありがとう
心が元気になりました。

最後に
おじいちゃん見つけてくれてありがとう
さよならすることができました。

 『ありがとうの詩』(河北新報出版センター刊・2012年)より。

この作品に出会った最初は、涙を禁じえなかった

 震災の年の暮れに、宮城県の河北新報社主催の詩のコンクールの審査をさせていただいた。被災した方々から詩を寄せてもらうという内容であった。まだ震災のさなかといっていい時期に四百点を超える作品が集まった。一度も詩を書いたことのない方々の応募が多かった。家族や家を失った方々の切実な作品が数多く集まり、選ぶ立場の私自身が何かを問われているような気持ちになって読み進めていた。

 この作品に出会った最初は、涙を禁じえなかった。震災後は気仙沼の避難所にいて、ボランティアや支援者の方々の厚意や、全国からの救援物資などにとても助けられた。素直に感謝の気持ちを伝えたいと思い、この作品は書かれた。初めての詩作だった。「ありがとう」という言葉が繰り返されていて、実にたくさんの謝意が伝わってくる。そして最後のそれだけは全く違う響きでこちらに届けられる。

 これを読みながら、いくつかが心の中をめぐった。

これは相馬の避難所に支援に行った友人から聞いた話だ。朝になると施設の事務室にいつも、波にさらわれたご主人のことをたずねにやって来るご年配の女性があったという。顔を出していつも一言。「じいちゃん 見つかったかい」。依然として行方不明のままの状態。「まだ見つからないよ」と答えると「そうかい」と呟き、自分の場所へと戻っていく。

 ある未明に夫と見受けられる男性のご遺体が、海辺にて発見された。朝早くにそのことを静かに告げると、女性は目を丸くしてそれを受け止めて、その後にぽつりとこう言ったそうである。「これで、やっと寂しくなることが出来るねえ」。私はそれを聞いて、発見されて家族の元へ戻ってくることがなければ、寂しくなることすら出来ないんだなあと実感した。しかし歳月が経っても今だに見つかっていない方が数多くある。

 支援に出かけた別の知人がこんなふうに話してくれたことがある。

皆が目覚める前の早朝に、静かに海辺を歩いていた。津波を受けた後の、家や舟や車や家財道具など様々なものがばらばらにある風景を見つめる男性を見かけた。漁師さんのような風貌のがっちりとした方だった。げんこつでごしごしと涙をぬぐっていた。立派な男の人があんなに悲しむ姿を見たのは初めてだった。そう言いながら彼も涙を流した。私も流れてしまった。

当たり前のものが一つ一つ得難いものに思えた 

 あるアナウンサーの友人から聞いた話の記憶も浮かぶ。避難所に取材に出かけた時に、元気な女性たちが洗濯機を前にして、立ち話をしていた。しばらくみんなで和気藹々と話し込んだ。みんな思ったよりも元気な語り口なので、マイクを向けながらも安心したのだそうだ。すると一人の方が命からがら避難をしてきた話をしているうちに、ふと涙ぐんだ。

するとみんながそれぞれに泣き出した。

 友人は思い出させてしまって、すみませんと即座に話した。すると、聞いてくれてありがとうという声が誰ともなく返ってきたそうである。本当は話をしたかったのだ、と。同じ思いをしているから口にしていないだけで、言葉にして語りたかったのだと言われたそうである。その友人も迷いの気持ちがあったが彼女たちに励まされて、各地の避難所にて色々な方にインタビューをし、熱心にたくさんの方々の気持ちを伝え続けた。

 避難所には私も暮らしたことがあるし、人に会うためにあちこちの施設へと足を運んだ。震災を受けた三月が近づいて来ると、呆然としながらもみんなで声を掛け合って過ごしていた日々の光景が、ありありと頭に浮かんでくる。

 当たり前のものが一つ一つ得難いものに思えた毎日だった。「文房具」「くつ」「クッキー」「やきそば」…。飾らない言葉だからこそ、真っすぐに届けられる真実がある。この詩に、当時のたくさんの大人たちが涙して励まされた。

手帳に書き写している方があったり、その後にポスターになったり、メロディが付けられて歌にもなった。心の傷を抱えていた皆が、無垢な子どもの声を求めていたことが分かる。

優しくて大好きだった祖父にやっと会えた

 よく遊びに連れて行ってくれて、優しくて大好きだった祖父は、二か月後に警察の方により海辺にて見つけられた。再会した時には涙がたくさん出たそうである。

 たとえたった一言でも、その裏側に大きなものが湛えられていれば、人の心は動かされるということを教えてもらった気がした。この詩を今でも大事にしている。

 当時の菊田くんは小学校五年生。私の息子は小学校六年生だった。卒業を控えていた。震災後の福島県の学校では卒業式がほとんど実施されなかった。様々な状況下でそれは仕方のないことであったが、父親としては味わわせてやりたい思いもあった。

 余震がおさまり、一時的に避難していた子どもたちがしだいに戻ってきた。

息子も山形へと行っていたが、友だちが地元に帰ってくるというので一緒に通いたいという気持ちが強くなって帰還することにした。四月から地元の中学校へと入学した。かなり後になってからその校舎の体育館を借りて、卒業式は実施された。入学式の後の卒業式だった。とてもありがたかった。

 少しずつ春が近づいてきた。めぐる歳月に祈りたい。

(月刊一個人4月号「詩歌の一撃」より)
 

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