徳川260年の封建制度の基盤は農業、すなわちコメであった。武士階級は農民からコメを年貢として取り立てることで支配者として君臨してきた。
商業は、その支配の基盤をゆるがす危険なものだった。だから、ときには田沼意次の時代のように、商品経済がとって替わったように見えても、それは一時のことで、松平定信が農本主義に回帰させてしまうのである。
武士階級が支配のイデオロギーとした農本主義的意識は、徳川封建制が滅んで資本主義化した130年後のいまも、日本人の意識の根底にどっかと根を下ろしている。その典型的なあらわれが、「金」に対する意識である。
日本人は「金」というと、すぐに「きれいな金」か「汚い金」かという。金を儲けることを軽蔑する。
資本主義社会では、金がすべてである。金さえあれば、人生の問題の九九パーセントは解決する。それが資本主義というものだ。日本人はまず「金」に対する農本主義的な考え方を捨て、金儲けができないのはバカだと思うようにならなければならない。
「きれいな金」と「汚い金」といった金銭観は、いいかえれば「法」を守っているかいないかという一種の倫理観に発している。その倫理観は、これもまた徳川260年の産物だが、「法は完璧だ」という思い込みの上にできあがったものだ。
だが、どんな法律も人間がつくったものだ。万人に等しく適応して、100パーセント完璧ということは絶対にありえない。いかなる秀才が知恵をしぼってつくろうとも、法律はすべての人間を規制することは不可能である。大多数は規制できても、かならず規制できない部分がある。
それをアメリカで「ループホール」という。
というと、日本人には「法の抜け道」をいく悪徳弁護士に見えるだろうが、「この法律にはこういうループホールがありますよ、やりませんか」というのはまったく合法なのである。法の「ループホール」をついて、例外条項に該当するように考え、税金を低くすることは決して脱税ではないのである。政府のほうは、そのループホールをつく人が多くなると、ネズミの穴をうめるように法を修正するのである。
ループホールをつかなくても、法律の範囲内で知恵を働かせるのは当然の行為である。
たとえば、バブル期に買っていたゴルフ会員権を、値下がりしたいま、やむなく手離したとしよう。
儲けが出れば、資産の譲渡による所得として譲渡所得の対象となるが、このケースのように赤字が出た場合には、他の所得と通算できるので、確定申告のときに、赤字分を他の所得から差し引いて申告すれば、税金がその分、少なくなるのである。
これは、土地や建物の場合にも適用できるので、堂々と申告すればよいのだ。
取られたら取り戻す、は鉄則である。
よほどのへそまがりでないかぎり人間はみな、金がほしい、儲けたいと思っているはずである。
となれば、「きれいな金」「汚い金」といった金銭観はすぐさまきれいさっぱり捨ててしまうことだ。捨ててしまって、金儲けは人生の最重要事項だと心得ることだ。
だから、政治家にたのんだほうが有利だという場合はたのんだほうがいい。合法的な政治献金でも「悪」だと聖人君子ぶっていては、金儲けのチャンスを逸することにもなる。政治家と政治的信条が違うから政治献金をしてまでたのまないという人もいるが、政治とビジネスはまったく無関係である。
金儲けにイデオロギーはいらないのである。