第2回でお話しましたが、日本では明治天皇以後、1人の天皇につき元号が1つという「一世一元制」になり、昭和54(1979)年に可決成立した元号法にも「(2)元号は、皇位の継承があった場合に限り改める」という一文が盛り込まれて、この「一世一元制」が確立しました。
その一方で、第1回でお話したとおり、元号発祥の国・中国では、正確な記録が遺されている唐の建国(618年)から清の滅亡(1911年)までの間に用いられた元号は189を数えていますが、日本では、最初の元号とされている「大化」から「平成」までの間に用いられた元号は、なんと「本家」中国のそれをはるかに上回る247を数えています。
この数字は、中国が「一世一元制」を基本に元号を使用してきたのに対して、日本では古代以来、1人の天皇が複数回の改元を行ってきたことを示しています。つまり、日本では、現在の「一世一元制」は、必ずしも日本における元号の伝統的な歴史とは相容れないものであることを物語っています。
ちなみに、明治天皇の父・孝明天皇は、御存知のように「嘉永」、「安政」、「万延」、「文久」、「元治」、「慶応」と、17年の間に6回の改元を行っています。
■災害後の改元が多かった日本それでは、どうして日本ではこのように改元が多く行われたのでしょうか? 東京大学名誉教授の保立道久氏によれば、10世紀以降、幕末までの改元約200回のうち、その約半数は地震等の災異後にこれを祓うために行った改元(災異改元)であったようです(「文化の扉 元号 1300年超の歴史」『朝日新聞』2019年3月11日朝刊記事)。明和9(1772)年、江戸の3大大火の一つであった「明和の大火(目黒行人坂大火)」が生じ、約1万4700人が亡くなりました。
この時、「明和9年」は「迷惑年」とも読めるため、12月10日に「安永」と改元したことは、あまりにも有名です。平成23(2011)年の東日本大震災の直後に、改元を希望した人も多かったのではないでしょうか?
■「あなたは何年生まれですか?」さて、「あなたは何年生まれですか?」と聞かれた時、皆さんはどのようにお答えになるでしょうか? 私は、やはり「昭和36年です」と答えることが多いように思います。ところが、同じ質問を、私が教えている学生たち約100人にしてみますと、結果は、西暦が約3分の2、元号が約3分の1でした。
先日、警察庁が運転免許証の有効期限表記を元号から西暦に変更しようとしたところ、パブリックコメントに寄せられた2万件のコメントのうち、約8割が否定的な見解であったため、結局「2019年(平成31年)」のような両方併記に方針を変更したというニュースが飛び込んできました(「運転免許証有効期限の表記 来春から西暦と元号 併記に」『NHK NEWS WEB』2018年12月22日)。運転免許証から元号を外し西暦に一本化しようとした警察庁を、市民が押しとどめたかたちです。
その一方で今春、京都府の各大学(京都大学、同志社大学、立命館大学、京都産業大学など)では、入試に際して、入学願書を西暦限定記入に統一する方針を打ち出しました(「元号の存在感薄れる? 改元まで1年「西暦の方が便利」」『京都新聞』2018年5月1日)。コンピューターによる処理等に際しての利便性を考えた結果でしょうか? もともと、全国のキリスト教系の大学では、学内文書には西暦を用いているところが多いようです。
■元号・西暦以外の時間表記法このほか、出版社である晩歳社は本の奥付に、広島・長崎に原子爆弾が投下された1945年を起点として「核時代○○年」と記しています(2019年は「核時代75年」)。また、天理教では、天理教が開かれた1838年を紀元として「立教○○年」と記しています(2019年は「立教182年」)。そして、プロ野球・阪神タイガースの熱烈なファンである私の友人は、1985年の日本一を起点として 「阪神タイガース○○年」と年賀状に書いてきます(2019年は「阪神タイガース35年」)。このような元号・西暦以外の時間表記方法は、まだまだありそうです。
■元号の将来は、国民が選択を!このように、元号と西暦、そして様々な時間表現が混在している今、「元号に一本化すべき」との声や、逆に「元号を廃止して西暦に一本化すべき」との声も聞かれますが、むしろ私は、これらが適宜共存・併用されていく中で、自然と方向性が定まっていくものと思っています。
だれからも強制されることなく、私たち国民がその将来を選択していくことが大切ではないでしょうか。「一世一元制」や「2字元号」を定めた現在の元号法も、今後の時代の流れと国民の元号に対する意識の変化に伴って改正されていくのではないでしょうか。
最後に、編集部から新元号を予想してほしいとのリクエストがありましたので、お応えしましょう。
先ずあり得ないですが、私の好きな江戸時代後期の禅僧・歌人である良寛[宝暦8(1758)年~天保2(1831)年]の詩、
負薪下翠岑 翠岑路不平 時憩長松陰 静聴春禽声(薪[たきぎ]を負うて翠岑[すいしん]を下る、翠岑 路[みち]平らかならず、時に憩[いこ]う 長松の陰、静かに聴く 春禽[しゅんきん]の声)
から「聴」と「声」を採り組み合わせて「聴声」では如何でしょうか?
今、私たちは、春禽(春の鳥)のみならず、あらゆる内外の「声」に広く耳を傾ける必要がある時代を迎えているような気がしていますが、如何でしょうか?
文/宮瀧 交二
大東文化大学文学部教授。学術博士。1961年生まれ。埼玉県立博物館主任学芸員を経て現職。大東文化大学のほか東京大学、東京女子大学、早稲田大学等で博物館学を講義。論文「博物館展示の記録化について」(『博物館研究』47-7)により、日本博物館協会・平成25年度棚橋賞を受賞。 監修に『元号と日本人』(プレジデント社)がある。
【参考文献】
・宮瀧交二監修『元号と日本人』プレジデント社、2019年。
・所 功・久禮旦雄・吉野健一『元号 年号から読み解く日本史』文春新書、2018年。
・グループSKIT・編 『元号でたどる日本史』PHP文庫、2016年。