日本を代表する経営者たちが、むさぼり読んだとされる『ユダヤの商法』。その著者・藤田田に、誰よりも深く切り込んだのが、外食ジャーナリストの中村芳平氏だ。
中村氏は1991年夏、日本マクドナルドから要請され、藤田田に2時間近くインタビューをおこない、原稿をまとめたものが「日本マクドナルド20年史」に掲載された。その藤田田物語を大幅加筆修正してお届けする第2回。■兄貴と慕われる
藤田田物語②「人生はカネやでーッ!」左翼学生に放った言葉の画像はこちら >>
 

 1944(昭和19)年4月、藤田は、戦火の激しい都会を避けて、山陰の学府・旧制松江高等学校に入学する。18歳のときのことだ。5か国語ほどを使い分けたという、語学の得意な父親の影響もあって、ドイツ語を第1外国語とする文科乙類に入った。「英語は中学時代5年間勉強して、ある程度マスターしていたので、もう1か国語くらい覚えたい」(藤田)というのが文乙志望の動機だった。文乙には好奇心の強い、少し大人びて、ひねくれた発想をする人間が集まっていた。

 藤田にとって不幸だったのは寮生活を一緒に送ったクラスメートが、肺結核に冒されていたことだ。入学して半年もすると体調を崩し、京都帝国大学で診断を受けた。その結果、肺結核で右肺に鶏卵大の空洞が二つあるのが発見された。

 診断をした京都大学結核研究所の岩井教授は、今ここで棺桶屋に電話をして棺桶の予約をするか、ただちに入院して人工気胸をやるかのどっちかだという。このままでは、あと2か月の命だともいう。

 私は、入院して人工気胸をやったら治るのかとたずねた。岩井教授は、それはわからないが、入院したら治すように全力をあげるという。私はやむを得ずに、即時入院を選んだ。

 入院をしたら、今度は、肛門のまわりに穴があく痔瘻にやられた……(中略)……。

 痔の手術は、痛いうえに恰好も悪い。尻の穴を人に見せるというのは死ぬほど恥ずかしい。しかも若いから、看護婦を見て体に変化が起きないように、シンボルに絆創膏を巻いて足に固定してしまう。まさに、踏んだり蹴ったりである。

 痔瘻はどうにか治ったが、結核は2~3年は安静にしていないといけないという。松江高等学校は、2年連続落第は放校だという。

 人工気胸というのは、空気を入れて、肺が動かないようにしておいて、そこへ栄養を送り込んで結核を退治するという治療法である。現在は抗生物質の出現で、人工気胸はやらなくなったが、当時は唯一の治療法だった。

 私は、死んでもいいと思って、学校へ出た。医師とは喧嘩別れである。そして松江の日赤に週に一度通って、空気を詰めかえてもらっていた。この人工気胸が私には効いた。
    (『Den Fujitaの商法④ 超常識のマネー戦略 新装版』)

 藤田は寮の監督に事情を話した。そうすると、「無茶をするな。体調の悪い時は寮で寝ていても出席扱いにしてやる」と温情をかけられた。結局藤田は寝込むまで悪化せず、1年間の休学扱いですんだ。といっても小学生浪人の1年間を加えれば、2年間棒に振ったことになる。だが藤田にとっては、この2年間の道草が読書に親しむなど人間力を鍛えるのである。藤田はこのころから〝怪物〟ぶりを発揮し始めた。

 旧制松江高校は、数ある旧制高校の中でも弊衣破帽、汚いことにかけては土佐の高知高校と並び称される。

〝蛮カラ〟の校風で知られていた。同校の先輩で、雑誌『暮らしの手帳』の名編集長だった故・花森安治氏が「女学生用のスカートをはいて、タクアンをボリボリとかじりながら、松江大橋の欄干(らん かん)の上を歩いた」という伝説が語り継がれるほど〝蛮風”でなる学校である。良くいえば、自由、革新の気風が強かった。

 ここで藤田は、応援団長、クラス総代、記念祭委員長などさまざまな役職をつとめることになる。これらは名誉職ではない。選挙で選ばれるもので、人格、識見、主義主張、能力、人望などが問われた。藤田は、何かことがあると飄々(ひょうひょう)として壇上に進み出て、自分の主張を早口の大阪弁で理路整然とまくしたてた。元来、こういう選挙では学校の教職員と近い関係にある学生が立候補したり、組織をバックにした左翼系学生がアジったりするのが常で、それに一般学生が追随するというスタイルが多かった。藤田は、そのような学生自治のあり方に不満を唱え自分の主義主張を訴えた。

 藤田の最大の武器は弁論だった。藤田の話は具体的で、左翼学生たちの舌鋒を軽く論破するだけの論理性、正当性、説得力を持っていた。加えて、藤田の人間的な魅力から、〝兄貴〟と慕う親衛隊も大勢おり、選挙となれば、誰よりも強かった。

むしろ、学校の教職員が「藤田が選ばれると、何をするかわからないし、無理難題をふっかけられる可能性もある」という危惧から、選挙妨害もやりかねなかったほどだった。

 藤田には類まれなアジテーター(扇動者)の素質があった。

■タブーの軍国主義批判

 当時から藤田は、堂々と軍国主義批判をぶつような硬骨漢であり、いつも学校側を恐れさせた。藤田が旧制松江高校に入学した翌1945(昭和20)年3月ごろ、寮の3年生が召集令状で戦地に赴くことになった。さっそく、寮で形ばかりの壮行会が行なわれた。それぞれが型どおりのあいさつをするのに業を煮やした藤田は、こんな怒りをぶちまけた。

 「みんな、当たりさわりのない話しをしてこの場を取り繕っているが、お前たちは赤紙1枚で戦争に駆りだされ、むざむざ死地に赴く先輩の心情を本気で思いやっているのか。戦争に駆り出されて死ぬことが、どんなに無意味なことか、本当にわかっているのか。先輩の気持ちを思えば、そんな型通りのあいさつでお茶を濁すことはできないはずだ。もっと真心のこもった話ができないのか……」

 藤田の怒気に圧倒されて、座はシーンと静まり返った。一方、次の日に戦地に赴く3年生は、「よくぞいってくれた」と、藤田に泣いて感謝したのである。今なら何でもないことだが、あの時代に軍国主義批判をぶつのは、一歩まちがえれば憲兵隊に連行され、拷問される危険性があった。

そんなことは百も承知の上で、藤田は、自分の正しいと思うことを堂々と発言した。それは、並大抵の勇気ではなかった。藤田の大きな特徴は、物事の本質を見抜く地頭の良さ、それと事に臨んでの度胸のよさにあった。

 藤田は、旧制北野中学校時代の松本善明のように軍国少年にはならなかった。それは外資系の会社につとめ、海外の動向に明るかった父・良輔から折りあるごとに、「日本が勝ち目のない無謀な戦争に突入した」と聞かされていたからだ。そして、その最大の理由は、「日本が単一国家、単一民族で視野が狭く、海外の動向についてあまりに無知であるからだ」と教えられていた。

 すでに、日本の敗色は濃厚であった。このまま戦争が続けば、次は藤田たちが戦地に駆りだされる番だった。藤田はやりきれなかった。

■父の遺言

 そんな藤田に大きな不幸が訪れた。大阪市内にあった実家が、1945(昭和20)年3月から始まったアメリカ軍のB29の全8回にわたる大空襲で全焼し、尊敬してやまなかった父を亡くしたことである。また兄・弟・妹も亡くした。

 藤田家は、この戦災で財産のほとんどを失った。戦後も無事に生き残り、91(平成3)年現在もなお健在なのは88歳の母・睦枝と、藤田本人、それに姉・美代子の3人だけである。

「父は読書家で数千冊の蔵書がありましたが、残ったのは今でも手元にあるドイツ語の辞典と、もう一冊程度でした」(藤田)

 父・良輔は、B29の爆撃が日増しに熾烈になる中で、このときが来るのをあるいは予感していたかのように、息子の田に宛てた遺書を英文で残していた。「THE WILL」と英語で表書きされた父の遺書には、あらまし次のような内容が便箋に5~6ページにわたって書かれていた。

 

 奈良のホテルにて。時間が少し空いたので、田に書き残しておいたほうが良いと思い、ペンを執りました。日本は、島国で視野が狭く、それが高じて世界と戦争をするような事態に陥りました。戦争はいずれ終わり、平和が来ると思います。その場合、田が生きていく上では東大の法学部に進学して政・財・官界に入るか、それができなければ、慶大の経済学部に進み経済人になるのが良いと思います。日本は、学歴、学閥社会なので、そのほうが生きやすいと思うからです。仮に私が死ぬようなことがあったら、そのときは母・睦枝を大切にしてください。

 父・良輔が冗談半分に息子の田に宛てて書いた遺書だったが、これが本物の遺書となったのである。戦争は、藤田家を悲嘆のどん底に突き落とした。藤田は、こんな中で「人間は、生まれてくるのも裸なら、死ぬのも裸だ」という厳粛な事実を認識した。このあたりに「人間・藤田田」の原体験があったのではないかと推測できる。

 父の死は藤田にとって、経済的にはきわめて厳しい高校生活を余儀なくされた。家庭教師など自分でお金を稼ぐ道を得なければならなかったからである。

■藤田のデカダンス

 藤田が「酒、煙草、女」といった青春の門をくぐるのは、このころのことだったと思われる。もともと藤田は、酒は一滴も飲めない体質で「奈良漬けを食べても酔っ払う」(藤田)ほどだった。
 父・良輔は、ひとりで2升、5人兄弟で集まると1斗酒を飲むほどの酒豪であったが、藤田は、子供のころから酒はきらいだったという。その藤田が酒を飲み始めるようになったのは、戦争という狂気の時代を生きのびる唯一の方法であったからだ。応援部の同輩に松江市在住の原田敬徳という醸造元「都の花」(当時)の跡継ぎがいた関係もあって、藤田は浴びるように酒を飲み始めた。親から受け継いだ酒豪の血が目覚めたか、1升びんをラッパ飲みし、下宿中を空瓶だらけにするほどの豪快な飲みっぷりだった。

「酒を飲むようになってからボクより酒の強い人間に会ったことはなかったですね。大酒を飲むようになってから友人と松江の遊郭に遊びに行ったことがあります。遊郭で飲んで放歌高吟していたら、外を歩いていた先生に見つけられ、寮の査問委員会にかけられ、放寮処分(寮を追い出される)になり、下宿するようになりました。それでもあの頃の旧制高校というのは先生と生徒の関係が濃密で、よく飲みに行って人生の問題などいろいろ議論したものです。ああいう全人教育というのは旧制高校のシステムがあったからこそ出来たのだと思います」

 藤田は、酒をラッパ飲みし遊郭で放歌高吟して放寮処分に遭いながら、それでいて試験の成績は、群を抜いて良かった。父の遺言に従い、東大に進むことが、藤田の精神的な支えになっていたからだ。

 1945(昭和20)年8月15日の敗戦を境に、日本は天皇中心の国家が崩壊し、民主主義社会へと大きく転換した。

■「人生はカネやでーッ!」

 戦後は混乱と不安で始まった。食糧難がこれに追い打ちをかけた。旧制松江高校の生徒たちも、自らの食べ物を確保するために奔走しなければならなかった。
 いつの世も時代の転換期には、藤田のように行動力、指導力、決断力を持った人間がその非凡な才能を発揮する。藤田は旧制松江高校の同窓会関係の人脈を使うなどして、隠岐島に渡ると、西郷町の町長と交渉し、魚を定期的に寮に入れてもらう約束を取り付けた。また、1946年の寮祭のときには、広島国税局と交渉し、煙草の特配を受けた。さらに、同じ年のインターハイのときには、県庁の隠匿(いんとく)物資となっていた木綿の反物を水泳部の六尺ふんどし用に大量に払い下げてもらった。加えて、この反物を米や魚と物々交換することで、京都のインターハイに参加していた旧制松江高校生の10日分ほどの食事を賄うという離れわざを演じた。

 すでにこの時代から、藤田には商才の萌芽(ほうが)が見られたのである。

 それは藤田が得意としていた英語、英会話が解禁になったことが関係している。

 なにしろ、文化祭やインターハイなどの催しは、すべてGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の許可を得なければ開催できなかったので、藤田は、松江に進駐してきたGHQの本部に出かけて行っては「文化祭をやるから便宜をはかってほしい」と交渉した。その際の英会話力について藤田は、「ブロークン・イングリッシュだった」と謙遜するが、相当の英会話力であったようだ。当時、米軍キャンプのGI(米兵)といえば泣く子も黙る怖い存在で、日本人はGIを避けるようにした。しかし、英語が通じる藤田には、むしろ親しみやすく冗談の言える相手だった。GHQは多発する日本人とのトラブル解決などのために大量の日本人通訳を必要としていた。

 そういうご時世であっただけに藤田はすぐにGHQのアルバイトに採用され、高額なアルバイト料を稼ぐようになった。

 GHQは食品や嗜好品、衣料品など豊かな物資にあふれていた。それらを見るにつけて藤田は、「日本が戦争に負けたのは米国の経済力、物量によるものだ」と確信した。そして、「日本が焼け跡、闇市の悲惨な状況から立ち直るためには、一日も早く経済力を復興させることが大切だ」と考えた。

 藤田はGHQのアルバイトをすることで、左翼系学生たちと思想的に対峙していった。藤田は、「人生はカネやでーッ! これがなかったら、救国済民も何もできゃせんよ!」と、叫んだ。これは父親を亡くし、自力で生きてゆく道を見つけなければならなかった藤田の本音といえた。

(『日本マクドナルド20年のあゆみ』より加筆修正)〈③へつづく〉

③は4月17日(水)12時に配信予定です。
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