■YouTuber「広瀬ゆう」が逮捕された話が始まります
――みなさん、はじめまして! YouTuberの広瀬ゆうです。
もともと私のことを知っている方もいらっしゃるかもしれませんが、ニュースで知ったという方もいらっしゃるかもしれませんね。
はい、私が「逮捕されちゃったYouTuber広瀬ゆう」本人です。実は私、YouTubeチャンネルで配信をしているほかに、FC2ライブというサイトでアダルトチャットをやっていました。ここでの活動が日本の法律に抵触するということで、2019年6月に突然警官がたくさん家にやってきた……というわけなんです。
今回の連載では、逮捕された話だけでなく、私がアダルトチャットやyoutube配信を始めた理由や、私のYouTubeチャンネルが人気番組に育っていった経緯などもじっくり書いていきたいと思います。
どうぞよろしくお願いします!
では、早速、まずは私の生い立ちなどから書いていきましょう。さてさて、いったいなぜ私は、アダルトなお仕事に足を踏み入れたのでしょうか。
私がネットタレントとしてデビューしたのは、今から3年ほど前のこと。2016年冬でした。
当時はちょうど失業中。次の仕事見つけなきゃ、でも、何をしよう? 何をしたらいんだろう? と悶々とする日々を送っていました。
失業前のお仕事は、歯科助手です。
自宅と職場の往復の毎日で、得られるお給料は、週休2日で月18万円。
家賃や生活費で精一杯。カツカツで貯金なんてできる余裕は全くありません!
それでも「手に職さえあれば、食いっぱぐれないはず!」と思って、頑張って取った歯科助手の資格です。岩手から上京して入った大学も頑張って卒業して……。
だから、歯科クリニックに勤務が決まったときは、患者さんのために誠意のある治療をサポートしたいと、わりと暑めな夢を持っていました。
けれども、私が勤めていたクリニックの院長は、お金大好きな経営スタイル。削るほどでもないちょっとした虫歯でも、削ってしまって詰め物で埋める処理をするのは当たり前。時には抜いて、高額なインプラントを勧めることもありました。
歯科医の立場では、当然、その方がいいわけです。収入が増えるし、経営も安定するし。
でも、私は必要のない治療や薬で売り上げを増やすことにどうしても納得ができませんでした。
必要以上の治療をすると、当然、治療回数も治療にかかる費用も増えて、患者さんの負担は大きくなるばかり。
それにやっぱりできるだけ、歯の健康な部分は削らず、残してあげたいじゃないですか。
だから、初診で見た目で見える1本の歯が痛む程度なら「レントゲン撮影はしなくても良いのではないでしょうか」と意見をしたり、「できるだけ歯を削らないようにして、予防方法を教えるべきじゃないですか?」と疑問をぶつけたりと、院長と衝突することが増えていってしまったのです。
そんなわけで、結局、歯科助手は1年で退職しちゃったんです。
患者さんをサポートしたいという歯科助手の夢も破れ、仕事に対する熱意が燃え尽きていた私。
次の仕事を見つけず辞めたため、何をしたらいいのだろうとひたすら悩む日々でした。まさに、わらをも掴む気持ち……。
「なにか将来につながることはないかな?」とひたすら探していました。
そんなある日のこと。女友達から食事会に誘われて参加してみたんです。その異業種交流会のような食事会には、30人ほどが集まっていて、話かけられた5人くらいの人と連絡先を交換しました。
その数日後、そのうちの1人から「チャットレディをしてみないか」とメールで誘われたのです。
内容は詳しく覚えていませんが、その時は、「絶対、あやしいでしょ」「ヤバいに決まってる!」としか思わず、返信するつもりはゼロでした。
だけど、そのメールを、ふとしたタイミングで思い出すのです。
仕事が決まらない。何をやったらいいのかわからない。貯金もどんどん減っていく……。そんな不安が押し寄せた時に……。
なぜなら、私にとってチャットレディには魅力があったから。
「自分で決めた好きな時間に働けるのって時間がコントロールできていいな」
「短期間だけでもいいって言ってたし、次が決まるまでの仕事としてはいいのかも?」と……。
そこで、1週間後くらいにメールしてみました。何回かやりとりをした後に、「面談だけでも受けてみよう」とチャットの事務所に行くことにしたんです。
面談が行われたのは、山手線沿いの某駅前のカフェ。
配信するサイト名であるFC2の仕組みと、そこで行う「チャットレディ」という仕事について、詳しくききました。
それは、男性とネット上でおしゃべりをして、少しずつ服を脱いでいき、最終的には下着も取るというもの。
裸になる!? セクシーに振る舞う? 私の頭の中は「えー! マジですか……」でいっぱい。
やはり“エッチなお仕事”には躊躇するものがありました。
帰り道は、「自分の体を人前に見せるのは恥ずかしいな」「本当に稼げるのかな?」「怪しいサイトじゃないのかな?」と頭の中はグルグル。
とはいえ、その後、5社ほど就職の面接をしたけれど、結局これだという仕事には巡りあえず……。
いつしか「好きな時に自由に働く時間が決められて、お金を稼げる仕事」を、真剣に考えるようになりました。
「普通のことをしていたら普通の人生になっちゃうな」と思っていたこともありますが、現実的にも“生活費の心配”が出てきたからです。
この“お金に対する不安”は、私のトラウマを刺激しました。
■後妻の義祖母に気をつかい、ミシミシいうボロ家で極貧生活
実は、私、子どもの頃、超貧乏だったのです。
それで、貧乏に対するトラウマがありまして……。
というわけで、子ども時代について、少し書きたいと思います。
私が生まれ育ったのは、東北地方は岩手県のスポーツが盛んな小さな町。山と海が近くにある自然豊かな場所でした。
毎日外に出て遊ぶ活溌な女の子で、習い事も、ピアノ、英語、スキー教室、水泳教室、ミニバスケットボールと、たくさんしていました。
習い事を多くしていたと書くと、裕福な家庭だと思われるかもしれません。でも、実は裕福とは正反対の家庭環境でした。
原因は、両親の浪費癖がとても強かったこと。お酒や煙草を毎日購入し、何を買うにもカード払い。
毎月、給料日一週間前になると金欠になり、両親はお金のことで大ゲンカ。ついには、両親のイライラが、私や姉弟にまで飛んできます。ウカウカしていると八つ当たりされるので、家にいるのは苦痛そのもの。逃げ出せ~状態でした。
しかも!!! 私が中学2年の時には、父が勤めていた会社を突然辞めちゃったんです。
当然、住んでいた家の住宅のローンは支払えなくなり、突然引っ越すことに……。
で、引越し先はというと!? そこは、父の義母が住む家。
私から見ると祖母にあたりますが、その祖母というのは父の実母が亡くなった後に祖父(父の実父)が迎えた後妻なので、父とは血の繋がりがありません。そのため、関係も良いものではありませんでした。
子どもながらに疎遠であることに気づいていたので、同じ屋根の下で住むのは正直イヤでしたね。
しかも、その家は、トタン屋根の狭く古い木造家屋。しかも私たちが住むことになった2階は、ボールを置くとコロコロと転がっていくほど斜めっていました。床は歩くとミシミシ軋むし、スリッパを履かないと歩けないほど。
そう、いわゆる“汚屋敷”なんです~っ。
ね? イヤでしょ!?
なのにね、そのおばあちゃんには気を使わなきゃならないの。
料理するでも、トイレやお風呂に入るでも、おばあちゃんのいる一階に降りて行かなきゃなので、なんとなくビクビク。これもまた、日常生活を送る上では、とても不便なものでした。
こんな経験から、貧乏がイヤになり、貧しさから脱出したいと思うようになったんです。
とはいえ、当時はまだ岩手から出ようとまでは思っていませんでした。上京しようと思った直接のきっかけは、2011年3月11日に発生した東日本大震災です。
家は高台だったため、自宅は無事でしたが、周りは甚大な被害。半壊と全壊の建物が並んでいました。
そのような風景の中で、日常生活も通常通りには送れなくなりました。
1番困ったのは飲食です。買いたくても販売している場所もないし、そもそも自宅には普段から“ストック”というものがなかったため、2日もすればすっからかん。
だから、食べ物は、1日に1食オンリー。といっても、ちゃんとした食事は摂れず、菓子パンやお菓子でお腹を満たす程度。水でさえ、1日500mlくらいしか採れない日々が続きました。
それもまたトラウマとなり、今でも、冷蔵庫の中には常に1週間分くらいの飲み物と保存食を入れています。
だから、YouTubeでも保存食の大切さを伝えたくて、緊急時に用意しておくべきものの動画をアップしたんですよ。
ちょっと話がずれましたが、この被災中の約45日間、私は夢も目標もなく、ただ悶々と毎日を過ごしていました。そして「このままでは前進がない」と漠然と思うようになって、生活が落ち着いてきた頃、私は大学入学と上京を決意決したのです。
でも今思えば、この頃から私の人生は少しずつ変わり始めていたのかもしれませんね。再就職先が見つからず、貯金もどんどんなくななっていった私は、あの頃のトラウマに背中を押され、例の面談から約3週間後、チャットレディとしてデビューすることになったんです。