■酒のあとの……中洲をひとまわりする間の情事

 享保から文化にかけての風俗を記した『飛鳥川』(八十九翁著)は、江戸には低級の私娼が多いと述べたあと――

 永久橋辺に舟饅頭といふ者出、寛政の頃、みな御停止に成る。

 とある。

御停止(ごちょうじ)は禁止のこと。
 また、続編『続飛鳥川』には、舟饅頭について――

 竜閑橋の下などへ漕来り、船人の呼び声左の如し、ぼちゃぼちゃのおまんでござい、などゝ女の名をいふ、あそべば廿四銅。

 と述べている。揚代は二十四文だった。

 現在、東京都中央区日本橋蛎殻町と日本橋箱崎町とのあいだを流れる川に、新永久橋が架かっている。このやや東に、かつて永久橋が架かっていた。
 竜閑橋は、外濠から流れ出て隅田川に通じる神田堀に架かっていた。東京都千代田区神田二丁目のあたりで、現在、橋はない。
 江戸の町には縦横に掘割が走り、隅田川に通じていた。この水運の発達を利用して膨大な物資が輸送されていたが、舟饅頭も水運を利用していたわけである。
 掘割に架かる橋のたもとに舟を停め、岸辺の道を行く男に声をかけた。

 さらに、寛政から天保までの風俗の変遷を記した『寛天見聞記』は、下級の私娼について述べ――

 天明の末迄は、大川中洲の脇、永久橋の辺りへ、舟まんぢうとて、小船に棹さして岸によせて、往来の裾を引、客来る時は、漕出して中洲一トめぐりするを限として、価三十二文也。

 とあり、やはり舟饅頭は永久橋のたもとが多かったようだ。大川は隅田川のこと。
 隅田川にできた中洲を舟でひとまわりするのが、いわばプレイタイムだった。
 揚代は、当初は二十四文だったのが、三十二文に値上がりし、定着したのであろう。

 ところで、舟饅頭がいた時期に関して、史料により、

天明(1781~89)の末まで
寛政(1789~1801)ころまで
享和(1801~04)ころまで

 と、諸説あるが、少なくとも享和の末にはいなくなったのであろう。

江戸時代は船上でサービス!? 船饅頭(ふなまんじゅう)という...の画像はこちら >>
写真を拡大 図3『世諺口紺屋雛形』(曲亭馬琴著)、国会図書館蔵

 図3は、客をおろしたあとの舟饅頭と、船頭が描かれている。舟饅頭と船頭がそれぞれ――

「二十四文が酒を呑んで、三十二文の饅頭を食っていくとは、あの客もおえねえ盗人上戸だ」
「今夜は豪儀に寒い晩だ。皸がめりめりして、こてえられねえ」

 と、ぼやいている。
 客の男は二十四文の酒を呑んだ勢いで、舟饅頭を買ったのであろう。
「饅頭を食った」は、舟饅頭と情交したこと。
 船頭は寒さから、手や足に「あかぎれ」ができているようだ。
寒いため、舟饅頭も股火鉢をしている。


 なお、図1や2ではわからなかったが、図3から、舟には船頭が乗り込んでいたのがわかる。船頭は用心棒の役目もあろう。一種のヒモだったのかもしれない。
                              (続く)

編集部おすすめ