集団はゲセルシャフトとゲマインシャフトに分かれると社会学では学ぶ。ゲゼルシャフトとは「機能体組織」であり、ゲマインシャフトとは「共同体組織」だ。
ゲマインシャフトは、集団の構成員の福祉のためにある組織である。運命共同体とも言われる。ゲゼルシャフトは、ある機能、目的を実現させるために組織化され、構成員はその目的実現のために行動する。入会脱会は任意である。
もちろん、実際の生身の人間の集団をこのように分類することには無理がある。ゲゼルシャフトもゲマインシャフトも思考モデルでしかない。実際には、どの集団にも、このふたつの要素が混在している。
たとえば、ゲマインシャフトに見える集団にゲゼルシャフトの要素はある。運命共同体であるはずの国民国家が、国体の維持と強化のためにはコストがかかるということで、知的障害者の断種手術や不妊手術をする。
ゲゼルシャフトであるけれども、ゲマインシャフトの要素が濃い集団もある。公的機関が、職場滞在時間が長いだけで実質的には働いていない生産性の低い類の職員を雇用し続けているように。
■元農林水産省次官と44歳引きこもりの息子
2019年6月1日に起きた東大卒の元農林水産省次官の男性(76歳)による44歳の引きこもりの息子殺害事件に関して言えば、加害者と被害者の家族観に大きく違いがあったようだ。加害者の父親は家族をゲゼルシャフトとして考えていたようだし、被害者の息子は家族をゲマインシャフトだと考えていたようだ。
被害者の男性は東京都内の中高一貫教育の私立学校に入学したが、いじめられて引きこもるようになった。その後、専門学校や大学にも入り、一時期は就職もしたが、再び引きこもるようになった。
この男性が独り暮らしを25年間したすえに、家に帰りたいと言い、自宅で両親と同居を始めたのが5月25日だった。その1週間後に、この被害者は父に刺殺された。なぜ、そのようなことになったのか。
■いまだに家族がゲマインシャフトだと想定している人間の悲劇
帰宅後の彼は「僕の人生はなんだった!」と泣き伏した。すると、父親はそれには応えず、彼が独居していた部屋に置いてきたゴミを処分しないといけないと指摘した。殺害された男性は、44歳にもなって何ひとつ達成できなかった自分をさらけ出して嘆いているのに、父親はそれには関心を示さなかった。
で、この男性は怒りと悲しみのあまりに激昂し、老いた父に苛烈な暴行を働いた。それで、父親は、このままではほんとうに殺されるし、他人にも迷惑をかける恐れがあるので、包丁で何度も息子を刺したという。
どうやら、被害者の男性は、家族というものは、構成員の福祉に貢献する集団であり、自分以外の家族の構成員は自分の苦しみに共感し自分を限りなく慰め、情緒的に限りなく受け容れるべきものと前提していたらしい。その期待が裏切られたので彼は激昂した。要するに、「なんで僕の辛さをわかってくれないの!」だ。
■ゲゼルシャフトとしての家族にとっては戦士になれない成員は邪魔
一方、加害者にとっては、家族はこの世界を生き抜き勝ち残っていくための軍団だと考えていたのではないか。家族の機能は、そのような軍団の一員を再生産し養成することである。家庭の役割は、そのような闘争に参加することを可能にするための生活資源を構成員に適切に分配し、そのような闘争が生む疲労の慰安を提供することだ。
したがって、加害者にとっては、引きこもりの息子は家族という軍団の勝利に全く寄与できない一員として無能極まりないと思えたはずだ。息子の引きこもりのために長女の縁談が壊れ長女が自殺したことは、彼にとっては婚姻ネットワークによる家族軍団の強化に寄与する可能性のある構成員を喪失したことになる。
それでも、加害者は、息子を軍団の一員として養成することに失敗した責任は軍団のリーダーとしての自分にあると考え、息子を44歳まで養ってきた。彼にとってはこれ以上の譲歩はなかった。
なのに、息子は軍団の有能な戦士になれなかったことを謝るでもなく反省するわけでもなく、外界で戦うことはできなかったのに、家庭では暴力を行使した。父親にとっては、この息子の行為は理不尽以上の理不尽であり、言語道断に身勝手な寄生虫的搾取的行為と思えたのではないか。
日本の家族は、すでに1980年代からゲゼルシャフト化しつつあった。それは、今村仁司が『現代思想の系譜学』(ちくま学芸文庫、1993)収録の1984年に発表された「市民社会化する家族」というエッセイにおいて指摘している。今村によると、資本主義社会における家族は、利益集団化し、構成員の価値は家族にもたらされる利益によって計られる。存在そのものに意味はないのだ。
だから、ゲゼルシャフト化した家族において、子どもはいつまでも子どもをやってはいられない。親も親だからという理由では尊敬はされない。老人は家庭を終の棲家にはできない。勝ち抜いていく軍団の有能な戦士になれないのならば、家族の中に居場所はない。
私には、現代の家族の問題の多くは、家族をいまだにゲマインシャフトとして想定している人間の、ゲゼルシャフト化している家族への適応不能から生じていると思える。