日本マクドナルドの創業者・藤田田による『ユダヤの商法』。1972(昭和47)年に刊行されたこの「金儲けの指南書」が令和の時代に再度脚光を浴びている。
時代を超えても読まれるこの伝説のバイブルの主人公・藤田田とはいったい何者なのか。ユダヤの商法に目覚めたターニングポイント、藤田田の礎を築き上げた誕生“前夜”に迫るストーリーを3回に渡ってお届けする第1回目。■『ユダヤの商法』は金儲けの指南書であり、起業家に勇気を与える実用的経済書
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イラスト:渡邉孝行

 

 2019年4月12日に47年ぶりに復刊された藤田田著の新装版『ユダヤの商法』(KKベストセラーズ)が発売されてから現在(2020年2月)までに総計281刷88万8000部(今回の4刷含む)の増版を重ねた大ベストセラーである【同書の初版は1972(昭和47)年5月】。

 なぜ、今、『ユダヤの商法』が売れて、伝説の起業家・藤田田が脚光を浴びることになったのか——。

 それは時代が大きな変革期にあるからではないだろうか。すべてのモノがインターネットに繋がる「IoT」(Internet of Things)とAI(人工知能)の時代がやって来る。インフラとなる5G(第5世代移動通信システム)が始動するが、サービス業では人手不足、製造業では終身雇用が終わりデジタル人材の世界的な獲得競争が激化している。また、新しいビジネスを興せる人材の育成を目的に、企業が副業&兼業を解禁した。

 このような変革の時代で個人の能力が問われる時代だからこそ、藤田田の『ユダヤの商法』が読まれるのだ。『ユダヤの商法』は、「こうすれば必ず儲かる」という金儲けの指南書であると同時に、ビジネスのタネを見つけて脱サラし、ベンチャー企業を興してみようという者へ勇気を与える実用的経済書だ。

 筆者は今から29年前の1991(平成3)年夏、同社広報部から依頼されて、藤田田に2時間近くインタビューし、『日本マクドナルドの20年史』に「凡眼には見えず、心眼を開け、好機は常に眼前にあり。藤田田物語」を400字40枚ほど書いた。

藤田が65歳の時のことである。

 きっかけは1985(昭和60)年10月発行の学研(現・学研ホールディングス)のビジネス誌『活性』(A5判、廃刊)に、「銀座のユダヤ人 藤田田研究」の一編として、「証言 / 芽吹く商才 人生はカネやでーッ! これがなかったらなにもできゃあせんよ」を6ページ書いたことだ。

 この時は新橋にあった名簿図書館で藤田田の旧制松江高校(現・島根大学)時代の同級生10人近くをランダムにリストアップし、6~7人にインタビューし記事をまとめた。藤田は旧制松江高校時代、応援団団長やクラス総代などを務め人気者だった。藤田は松江高校には1944年~48年3月まで在籍。戦後、旧制松江女子専門学校(現・県立島根女子短期大学)の生徒だった吉原悦子さんと知り合い、後に結婚した。吉原さんは大阪船場の「いとはん」で、音楽部に籍を置いていたという。

 藤田は、筆者が書いた『活性』の記事を非常に気に入り、社長室の書棚に置いていたそうだ。それが1991年の夏に「藤田田物語」を書く、事の始まりだった。

【金儲けの哲学】『ユダヤの商法』に令和の時代を生き抜く術を見た ~ 起業家・藤田田 誕生前夜① ~
旧制松江高校時代(右から3番目)■1日の賃金240円時代に毎月5万円を貯金、40年間で2億円超! 
【金儲けの哲学】『ユダヤの商法』に令和の時代を生き抜く術を見た ~ 起業家・藤田田 誕生前夜① ~
小学校時代の藤田田。父・良輔氏と。

 筆者が西新宿の住友三角ビル44階の日本マクドナルド本社(当時)で藤田と向かい合い学研『活性』に登場した級友の話が出た後、「それで中村さんは何を聞きたいですか」と、水を向けられた。

筆者が、「青春時代のことを……」と言うと、藤田はそれから立て板に水が流れるように、次から次へとノンストップで話し続けた。

 藤田のインタビューで面白かったのは、藤田が東大法学部時代に交流のあった高利貸し「光クラブ【註】」の山崎晃嗣との出会いと別れ。そして、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の通訳をしている時に、ユダヤ人軍曹と知り合い「ユダヤの商法」を学び、大学2年在学中の1950年(昭和25年)4月に輸入雑貨商社の「藤田商店」を個人創業したことだ。その際、藤田が当時としては高額な5万円(現在の120万円前後)を毎月定期預金として始めていたことにも興味が注がれた。

【註】光クラブ・・・現役東大法学部生・山崎晃嗣が1948年、中野区鍋屋横丁に設立した貸金会社。東大生の闇金業者の異名と過剰な広告戦略で事業は拡大するも、翌年、山崎が物価統制令違反で逮捕されると信用収縮。3000万円の負債を抱えたまま債務履行日の前日、山崎は青酸カリで自殺。この一連の事件を「光クラブ事件」として昭和の裏面史を飾った。東大法学部の同級生だった藤田田さんは、この山崎を同級生として最も優秀だと評価している。また、やはり同窓の三島由紀夫は、「光クラブ事件」をモチーフに小説『青の時代』を上梓したことは有名だ。

 筆者は怪物・藤田田の定期預金を大きなテーマにして「藤田田物語」を書いた。『日本マクドナルドの20年史』は完成すると1部送られてきたのだが、よく読むと定期預金の部分について藤田が相当な加筆修正していたのである。

それは次のような内容だった。

 藤田が月々5万円の定期預金を始めた1950年頃、日雇労働者の1日の賃金は俗称で「二個四」(100円札2、10円札4でニコヨン)とも言われた手取り240円であった。すなわち25日間働いても、「240円×25日間=6000円」にしかならなかった時代である。その時代に藤田は、「100万円」を目標に、日雇い労働者の賃金8カ月分以上にも上る5万円の大金を毎月、定期預金していたのである。

 藤田は最初の10年間は5万円、次の10年間は10万円、その次の10年間は15万円と、つまり1950~80(昭和25~55)年の30年間、月平均10万円をコツコツ貯金してきた。さらに81年以降は毎月10万円を貯金していた。筆者が91(平成3)年にインタビューした時には40年以上にもわたって一度も休まずに続けていた。

 それでは藤田の定期預金は40年間でいくらになったか——。

■人生「仕事(貯金)× 時間=巨大な力」

 1年間は12カ月だから40年といえば、12カ月×40年間で480カ月。その間に積み立てた元金の総額は480カ月×10万円で4800万円。これが毎年、複利預金で回っていくわけだが、利回り後の貯金額のトータルは、91年4月現在でなんと「2億1157万6654円」に達している。元金4800万円の5倍近い増え方である。

 参考までに計算してみると、藤田の定期預金が約1億2000万円になるのには30年間かかったが、この2億1157万円になるのにはたったの10年間しかかかっていない。複利預金の増え方をまざまざと見せつけるものだ。今後、毎月10万円貯金を続けていれば1億円貯まるのにかかる年数が8年、5年とますます短期間になっていくのは間違いない。

「私は、息子の元(現・藤田商店社長)に、『この貯金は、私が死んだあとも100年間続けてみろ』と言っているんです。親、子、孫、3代にわたって続けることになるかもしれませんが、そうすればどうなるのか——。私のように粘り強い日本人がひとりくらい存在していても面白いのではないか」

 藤田が始めた10万円貯金は令和2年で70年目に入った。現在のようなマイナス金利時代ではさすがに預金額は増えないだろうが、トータルでは5~7億円程度にはなっているのではないだろうか。

 藤田は、人生が「仕事(貯金)× 時間=巨大な力」であるということを、定期預金を通じて証明しようとしていたように思う。《第2回へつづく》

 

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