
東大生で闇金を始め、「光クラブ事件」で自裁した天才の山崎晃嗣に欠けていたものは、「仕事×時間=巨大な力」のうち、時間の概念、つまり持久力、耐久力であった。
藤田はこう言う。「山崎は頭がよすぎて、先が見えすぎて早く死んじゃった気がします。人間というのはある程度バカなほうが、ハッピーかもわからんですね」
藤田はこの時期、GHQでユダヤ人のウイルキンソン軍曹の下でユダヤの商法を学んでいた。ユダヤ人は藤田に金儲けのコツを教えた。しかし、ユダヤ人から見た藤田には大きな欠点があった。それは、藤田の「懐疑主義」である。
ユダヤ人は「他人を信じずに、自分ひとりを信じようとする態度は悪くはないが、それが昂(こう)じて他人の言うことをすべて疑ってかかることは、行動のエネルギーを削ぎ、最後は無気力に陥ってしまうだけだ。それでは金儲けなど100年経ってもできない」と、藤田をこき下ろした。
藤田は、「『人生はカネやでーッ!』と言いながら東大法学部卒の肩書きでエリートコースを歩いていきたい」という欲望を捨てきれなかった。そうなると今の自分の姿を“仮の姿”とみなしてしまい、金儲けに情熱を傾けられなくなる。
藤田が東大法学部のエリート根性と決別するのは、1950年(昭和25年)に藤田商店を設立し、「100万円を目標」に定期預金を始めてからだ。藤田はこう述懐する。
「毎月定期的に5万円を貯金することで、人生に対して何か吹っ切れていくものを感じました。それは東大法学部卒の“権威”とか、外交官になる“夢”とか、無気力の世界へと導く“懐疑主義”とか…。そういう虚妄の世界とは全く異なる堅実で真実の世界が見えて来たのです」
■わずか1年と短命に終わった山崎と日本マクドナルドを設立した藤田の違い
藤田は、目標の100万円(現在の約3000万円)を貯める頃には、実業の世界へ「心眼」が開け出した。その経営哲学となったのが「ユダヤの商法」であった。ユダヤ人の蓄財法に次のようなものがある。
●ふくれた財布がすばらしいとはいえない。しかしカラの財布は最悪だ●金銭は機会を提供する
その後、藤田はGHQのユダヤ人と組んで通訳の他にサイドビジネスを始めた。英語に加え、ドイツ語も操れたたのが武器だった。大学2年になる頃、過分な外貨割り当てを受けてユダヤ人ルートで欧州に出張、ハンドバッグやアクセサリーなどを輸入し、百貨店などに卸すビジネスを始めた。
藤田は1951(昭和26)年3月、東大法学部政治学科を卒業すると、迷わず藤田商店の仕事に取り組んだ。まさに“裸一貫”からのスタートであったが、100万円の貯金が藤田を物心両面で支えたのである。
1948年に東大法学部で出会った光クラブの山崎と藤田は全く異なる道を歩んだ。山崎が東大法学部の現役学生の肩書きを徹底的に活用したのに対し、藤田は東大法学部卒業の権威や肩書きを捨て「銀座のユダヤ人」として生きた。さらに、藤田は米国マクドナルドと折半出資で日本マクドナルドを設立。1971年7月に1号店を銀座三越に出店したのをきっかけに、日本中にハンバーガー文化を広めた。
また藤田は1972年に『ユダヤの商法』を出版した。『ユダヤの商法』は、
「78:22の宇宙法則」「女を狙え」
「口を狙え」
「首つり人の足をひっぱれ」
「懐疑主義は無気力のモト」
など、ユダヤの5000年の歴史のなかで蓄積されてきた知識・知恵を97カ条にわたって解説した“警世の書”だ。
『ユダヤの商法』には金儲けのノウハウをはじめ、脱サラしてアントレプレナー(起業家)を目指すヒントが詰まっている。藤田自身、ユダヤ人から商法を学ぶことで、ベンチャー企業「藤田商店」を立ち上げた。
時代の転換期に求められる最大の資質は、藤田田のように東大法学部卒業の権威やブランドに頼るのではなく、個人の力でビジネスのタネを見つけ起業する、ベンチャー精神である。