2月27日(木曜日)、安倍首相が根拠も基準も一切明示することなく、突如、全国の公立学校に一斉休校の要請をぶち上げたとき、私はこれを暴挙だと思いつつ、一方で公立学校の設置者である地方自治体は、右へならえでこれに従ってしまうのではないかと危惧した。
翌28日(金曜日)の午後、小学校1年生の息子は上履きや体操着と一緒に1年間書き溜めた絵や作文を持たされて帰ってきた。玄関を入るなり「学校、終わっちゃった」と言って、立ったまま泣いた。あまりにも突然の出来事に、ショックを受けてしまったのだ。
息子が持ち帰った市の教育委員会からの通知には、安倍首相の言葉をそのままトレースした文言が並んでいた。「子供の健康と安全を守るために」。誰も反論のしようのない言葉だが、休校が子供の健康と安全を守ることになるという根拠も、全国一律でなければならない理由も、休校の是非を判断する基準も何も書かれていなかった。
明けて3月2日(月曜日)、小学校は本当に休みになってしまった。若干の首長、たとえば滋賀県湖南市の谷畑英吾市長などがSNS上で異を唱えはしたものの、全国の公立学校の99%が首相の鶴の一声で、すんなりと休校に入ってしまったのである。学校を休みにするってこんなに簡単なことなのかという疑問と、やっぱりなという諦めの気分が交錯した。
ちなみに、全国で唯一、休校要請をはねつけた県は島根県だという。県が設置者である県立高校と特別支援学校は、年度末まで授業を継続した。設置者が市町村である小中学校については、市町村独自の判断に委ねたという。丸山達也知事の英断という言うほかないだろう。
国立を除く公教育の主体は地方自治体であると叫んでみたいところだが、専門家の意見も聞かずに発した首相の要請に、全国の地方自治体のほとんどが付き従ってしまう様を見ると、「自治」という言葉に虚しさを覚える。虚しいけれど、だからと言って「自治」にアクセスする方法も思い浮かばない。せいぜい、SNSに短慮な首相の悪口を書き込むぐらいのことしかできない。私自身、地方自治の主体であるはずなのに、何もできない。
■子供の命よりお金、という国一斉休校はスタートしたものの、通勤電車はいつものように満員であり、学童保育は出勤前に子供を預けなくてはならなくなった保護者のために早朝からオープンしており、保育園は平常通りに開園している。
どう考えたって、小学校より満員電車や学童や保育園の方が、はるかに濃厚接触の機会が多いと思うが、その矛盾を突くマスメディアは少なかった。学齢期の子供を持つ世帯の多くが共働きであり、子供を保育園や学童に預け、満員電車にゆられて通勤しているからだろう。
彼らはマジョリティーであり、父親なのに朝から晩まで家の中で仕事をしている物書きなぞは、マイノリティーの中のマイノリティーなのだ。
マスメディアは、マジョリティーを敵にしない。お客様の批判は口にしない。
公立学校はダメだが満員電車と学童と保育園はOKとする構図から透けて見えるのは――休校の目的があくまでも「子供の健康と安全を守る」ことだとすれば――子供の健康と安全が脅かされることよりも、経済活動が遅滞する方が困るという現政権の本音であろう。
仮に子供の密集が子供の命にかかわるというエビデンスがあって、しかも子供の命を本気で守りたいと考えるならば、学童保育こそ真っ先にやめるべきである。それを早朝からに「延長」するなどもっての外。乳児や幼児が舐めたオモチャを共有する保育園を開園するなど、論外であるはずだ。
要するにわれわれは、「子供の命より、お金」という国に住んでいるのだ。エコノミック・アニマルという言葉は、いまだ死語ではなかったのだ。
こんなこと言ったって“常識ある社会人”たちには、まったく響かないだろうが……。

仕事をしながら子供の相手をするのは、実にストレスフルなことである。「パソコン触るな」「お前が踏んでる紙はパパの資料だ」「クレヨンしんちゃんの真似はやめなさい」などと子供を諫めつつドリルをやらせ、焼きそばを作り、カレーを作る。
休校開始以降、学校からは「各家庭で1年間の復習をしてください」という同報メールが1本きただけ。家庭に学校の機能を代替しろというのであれば、そもそも学校とは何なのだろう? 1年の締めくくりの時期に「学校にしかできないこと」を子供たちに授けられなかったことを、地団駄踏んで悔しがる教師は存在しないのだろうか?
3月20日(金曜日)、子供をようやく寝かしつけて、ドイツのメルケル首相の演説の翻訳を読んだ。民主主義に対する認識の深さと、国民に対する真摯な姿勢に打たれた。
メルケル首相は感染症対策を決定した過程と根拠を丁寧に説明すると同時に、旅行や移動の自由を制限せざるを得ないことがいかに苦渋に満ちた決断であったかを切々と語っていた。そして医療従事者だけでなく、物流の最前線に立つスーパーのレジ係にも敬意を表していた。東独出身の首相は、民主、平等、自由が持つ価値の重さと輝きを、身にしみて体験してきたのだろう。
3月24日(火曜日)、文科省は学校再開のガイドラインを提示した。私は新規の感染者数が日々増加している中で、なぜ学校再開なのかがまったく理解できなかった。この危機的状況下で再開できるというのなら、卒業式や終業式を取りやめてまでこの1か月間休校にしてきた理由は、いったい何だというのだろうか?
案の定というべきか、感染者数の急増を受けて、私の住む地域では学校再開は沙汰止みになった。女子高生風に言えば、いま再開するのは「なんとなく、やばくね」といったところだろう。台湾のように感染者が何人出たら学級閉鎖、何人出たら学校閉鎖といった明確な基準を設けないから、物事はすべて「なんとなく」決まり、「なんとなく」見送られていく。
非常事態宣言にしても、宣言を出す基準が曖昧だから、複数の専門家が「いま出せばなんとかなる」と言っているのに(4月4日現在)出ない、出さない。出す出さないの判断は、政権の恣意に委ねられている。
こうした状況が長く続くと、人々は実質的な意思決定者への依存を深めていくことになる。
なぜなら、決定の根拠も基準も明示されない以上、不合理や矛盾を突いて決定内容の変更や中止を迫ることができないからだ。われわれは、嘆願や請願や懇願以外に、意思決定者を翻意させる手段を持たない。言い換えれば、理屈が通じないのである。
わが宰相は4月1日(水曜日)、全世帯に数百億円かけて布マスクを2枚ずつ配布するという珍奇な、あるいはチンケな対策をまたしても唐突に打ち出した。一説によれば、側近から「マスクを配れば国民の不安なんてパッと解消しますよ」と耳打ちされたそうである。
私も含め、多くの人々がSNSを舞台に首相の“英断”を罵倒しまくっているが、恐ろしいのは、罵倒している当の相手に頭を下げてお願いをしなくては、対策の変更や中止ができないという倒錯した状況に陥っていることである。
いくら「布マスクなんて必要ない」と叫んでも、アベノマスクは送られてくるだろう。もはや、論理的な説得によって発送を止められる人はいない。罵倒しながら、この事態をなんとか収拾してほしいとお願いするしかなくなっているのだ。
小学校2年生になる息子は、4月6日(月曜日)、たった1日だけ登校して、再び先の見えない休校に突入する。休校の根拠と基準が曖昧である以上、学校再開も「なんとなく」決まるのであろう。保護者は意思決定者の「ご聖断」をただただ待つ以外にない。
これを、民主主義と呼ぶ人はいないだろう。