本能寺跡

 一般的にはマイナーな安土桃山時代の武将・安田国継(やすだ・くにつぐ)。実はこの武将は「本能寺の変」において、織田信長に一番槍をつけ、信長の小姓の森蘭丸を討ち取ったと言われている武将なのです。

 通称を「作兵衛(さくべえ)」と名乗った国継は、美濃国安田村(岐阜県海津市)に生まれ、同じく美濃出身の明智光秀の配下の斎藤利三(としみつ)に仕えました。槍が得意だったと言われる猛将で「明智三羽烏(さんばがらす)」に数えられるほど、各戦で活躍したようです。

 そして、天正10年(1582年)6月2日未明―――。明智軍の先鋒として、織田信長のいる本能寺に攻め込みます。国継が寺へ侵入した頃、信長は小姓・森蘭丸の「名もない武士に討たれてはなりませぬ」という進言を受け、障子を閉めて屋敷の奥へ進もうとしていました。国継は、偶然その姿を目にします。

「信長公、返させ給へ!」

 国継は叫びながら必死に後を追い、縁側へ飛び乗り、障子越しに槍を突き出しました。

(捉えたか…!)

 国継の槍は、信長の体を鋭く突いたと言われています。そして、障子を突き破って信長を討とうとしたその時―――。

 

「待て!森蘭丸を見知りたるか!」

 信長の危機を察知した蘭丸が、国継の行く手を阻みました。蘭丸が懸命に突きだした十文字槍によって、国継は股に槍を受けて負傷してしまいます。しかし、国継は蘭丸の槍の穂先を掴み、屋敷の縁側から引きずり下ろします。

そして、蘭丸が態勢を崩したところを、国継は下から刀で突きました。

「森蘭丸、討ち取ったり!」

 蘭丸を討ち取った国継は、信長の首を取りに向かおうとしますが、既に信長は燃え盛る屋敷の奥へ姿を消していました。

「信長公!返させ給へー!!!」

 国継が二度と信長の姿を目にすることはありませんでした。『信長公記』によると、戦闘中に肘に槍傷を負った信長は最期の姿を見せまいと、屋敷の奥深くに入り、自害して果てたと言われています。

 その後「山崎の戦い」で光秀が秀吉に敗れて主家の明智家が滅亡すると、秀吉からの探索を逃れるため、国継は名を「天野源右衛門(あまの・げんえもん)」と改めます。そして、森長可(ながよし:蘭丸の兄)や羽柴秀勝(信長の四男)、蒲生氏郷(信長の婿)などに仕えますが、各大名家で問題を起こし、出仕と出奔を繰り返してしまいます。

 それでも大名からの仕官の話は尽きず、九州へ渡り、武勇で知られる柳河(福岡県柳川市)の大名・立花宗茂に仕えました。宗茂の家臣として「朝鮮出兵」などに従軍しますが、立花家の譜代家臣といさかいを起こして、再び出奔することになってしまいました。

 

 最終的に国継が辿り着いたのが、寺沢広高が治める肥前国・唐津藩(佐賀県唐津市)でした。広高は国継の旧友であり、立身出世を夢見た若い頃に「どちらか一人が大名になったら、残る一人を必ず高禄で召し抱える」と約束したそうです。そして、唐津藩8万石の主となっていた広高は国継を召し抱えて、当時の約束を果たしたと言われています。

 旧友の許で晩年を過ごした国継は、唐津で亡くなりました。

命日は慶長2年(1597年)6月2日。奇しくも「本能寺の変」と同日でした。死因は頬の腫物の悪化を苦にした自害だったと言われ、これは信長を刺し蘭丸を討った祟りであると噂されたそうです。

 国継の墓は唐津城下の浄泰寺(じょうたいじ)に建立されました。そしてこの寺には、ある一本の槍が伝わりました。その槍は国継の愛槍と言われ、「本能寺の変」の時に織田信長を突いたものだと伝承されています。現在は唐津城で目にすることが出来ます。

(文/長谷川ヨシテル)

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