社畜にも二種類の人間がいる
「社畜」なのに社畜じゃない。激務のゲーム制作会社で見つけた自...の画像はこちら >>
 

「NEW GAME!」というTVアニメが7月から放送されると、ネット上では「社畜アニメ」だという感想が溢れかえった。しかし、そもそも「社畜」とは何なのだろか。

「NEW GAME!」は、そういったことについて考えさせられるアニメでもあった。

 ゲーム制作会社の新入社員である主人公涼風青葉が初出社早々に目にしたのは、会社で寝泊まりする上司(デスクの上には大量のエナジードリンクの空き缶が置かれている)の姿。初出社の日は朝8時台の通勤ラッシュにもまれながら出勤していたのに、初仕事を終えて退勤する時、時計には「21:00」という数字が表示されている。出社初日からこの様子では、先々の激務と長時間労働は避けられそうにない。

 その後も、休日出勤や終電間際までの勤務、終電後の泊まり込みでの勤務の様子などがふんだんに描かれている。青葉は、就職した「株式会社イーグルジャンプ」というブラック企業で過労死してしまうのではないかと危惧されるほどだ。

 しかも、時給制のバイトに土日出勤や残業で働かれると、正社員である青葉の給料がバイトより安くなるかもしれないと言われるほどの薄給である。

 とはいえ、制作していたゲームが完成して発売を迎える最終回まで、時折疲れた様子を見せはするものの、登場人物たちはみんな生き生きと仕事をしていた。

 原作者の得能正太郎は、原作コミックス第一巻のあとがきで「作者が昔ゲーム会社に3年勤務していたことにもとづいて出来た作品」であることと、「ほのぼの社畜漫画を描くつもりだったんですがどうにも青葉達は仲がいいせいか辛い雰囲気にはなりませんでした」というコメントを述べている。

 実際に、早朝から深夜まで働き、時に休日出勤もする青葉は、世間的にみれば十分に「社畜」なのかもしれない。だが、「社畜」といっても一様ではない。いやいやながら会社に拘束されて私生活が犠牲にされてしまうような、一般的にイメージされる「社畜」もいれば、自主的に早出、残業、休日出勤をして会社に貢献しようとする「社畜」もいる。

どちらかといえば、青葉たちは、後者の「社畜」なのではないだろうか。

 青葉は、幼い頃から、就職した会社「イーグルジャンプ」制作のゲーム「FAIRIES STORY」シリーズのファンであり、後に上司となるキャラクターデザインの八神コウにずっと憧れを抱いていた。そして、就職して実際に「FAIRIES STORY」の新作の制作に携わることになり、憧れの存在である八神コウの下で働くことになる。

 青葉からしてみれば、どんなに労働時間が長くても、夢が叶って憧れの仕事につけているのだから、充実した日々を過ごせているように感じられることだろう。しかも、同じ部署の先輩たちも優しく接してくれて社内の人間関係も良好なようなので、仕事が辛いどころか楽しく感じられるはずだ。

「自由」があれば社畜とは呼べない 

 そもそも、働くということには様々な意味合いがある。思想家のハンナ・アーレント(1906~1975)は、著書『人間の条件』(1958)において人間の「活動的生活(vita activa)」を「労働(labor)」「仕事(work)」「活動(action)」の三つに分けた。「労働」とは人間の生物としての生命を維持させるものであり、「仕事」とは世界の中に自らの手で人工的な物を生み出すものであり、「活動」とは地球上に住む人間は一人きりではなく多数であるという人間の条件に対応したものである。

 つまり大雑把に言えば、人間が働くということには、「生きるために稼ぐ=労働」という側面、「何かを作り出して死んだ後にも自分の製作物を世界に残す=仕事」という側面、「たくさんいる他の人間とは違う自分だけの価値を発揮する=活動」という側面があるということである。

 古代ギリシャでは「労働」を奴隷や女性たちに任せ、「労働」から解放された「市民」たちは芸術活動や議論などの「仕事」や「活動」にいそしむための「自由」を得た。一方、近代では「労働」こそが重要なものとされ、人間が「仕事」や「活動」にいそしむための「自由」は失われたのである。

 「労働」とは自分個人の生命や生活に関わる私的領域におけるものである一方で、「活動」とは多数の人と関わる公的領域におけるものである。

つまり、現代の人間は公的領域における「自由」をも失っているのだ。

 そうは言っても、現代の人間が何の「労働」もせずに生きていくことはできない。アーレントの主張を前提とした上で、私としては、人間が働く際に、「労働」「仕事」「活動」のどれかに重きを置くというよりも、どのような仕事であっても常にこの三つの要素が不可分なものとして含まれていると意識することが大切なのではないかと考えている。

 青葉は、給料をもらうために「労働」し、ゲームという製作物を作り出すために「仕事」し、公的に自分の創作の価値や卓越性を認めてもらうために「活動」していると言えるだろう。労働に対する対価としてお金をもらい、自分が作り出した製作物を実際に手にして、他者から評価してもらえれば、働き甲斐と精神的な「自由」を十分に感じられるはずだ。

 青葉が携わっているようなゲーム制作という仕事はクリエイティブな仕事でもあるので、他の仕事に比べれば「仕事」や「活動」という側面が見えやすいのかもしれない。だが、他のどんな仕事でも、本人が働き甲斐や精神的な「自由」を感じられるのであれば、生きるために稼ぐ「労働」以外にも、「仕事」や「活動」といった側面が見えてくるのではないだろうか。

 現代の若者の中には、就職してから積極的に「社畜化」していく人たちは少なくない。そういった者たちの中にも、学生時代までは自分の居場所やアイデンティティを見つけられずにいたものの、仕事と働く場所を与えられたことで、自分の価値を見つけられたと感じる者もいることだろう。同僚たちと一緒に何かを為し、会社の役に立っていると感じられるだけでも、働き甲斐を感じられるようになるものである。

 その反面、「ブラック企業」で強制的に働かせられるということも多い。自分の働きが正当に評価されなかったり、社内の人間関係が悪く連帯感がなければ、会社に貢献したいという気持ちも薄れていく。

 結局のところ、「社畜」というのは労働時間や会社への奉仕という外面的な面での拘束という以上に、その仕事に精神的に拘束されている状態のことを言うのだろう。どれほど長時間働いていても、本人が働き甲斐を感じ、精神的な「自由」を得ていれば、拘束された「畜」とは言えないのである。

 このように「NEW GAME!」とは、「社畜」とは何かということと働くということを考えさせてくれるアニメでもある。

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