土佐が生んだ幕末の英雄・坂本龍馬(さかもと・りょうま)。薩長同盟や大政奉還の立役者となった龍馬は、京都の近江屋で襲撃に遭い、突然の最期を迎えました。その時、龍馬を斬った人物が「桂早之助(かつら・はやのすけ)」という27歳の若き幕臣だったと言われているのです。
諱(いみな)を「利義(としよし)」といった早之助は、天保12年(1841年)に「京都所司代組・同心」を務める家に生まれます。剣術は17歳にして西岡是心(にしおかぜしん)流を修め、小太刀の達人として知られていました。京都の文武場では剣術世話心得(せわこころえ≒助教授)を務めるなど、剣術の腕前は相当なものでした。
元治元年(1864年)に行われた「上覧心得試合」という将軍が観覧する剣術の試合では、京都所司代の代表として参戦し、講武所(江戸にある幕府の武芸所)の剣客をことごとく破り、将軍の徳川家茂より白銀5枚を賜っています。
その実力を認められた早之助は、慶応4年(1867年)2月、将軍後見職の一橋慶喜(後の徳川慶喜)による軍制改革に伴い「京都所司代組・同心」から「京都見廻組(きょうとみまわりぐみ)」に推挙され、7月には肝煎(きもいり≒小隊長)に昇進しました。
「京都見廻組」というのは、会津藩の配下に置かれた京都の治安維持組織であり、幕臣以外の浪士や町人、農民などで構成された「新選組(しんせんぐみ)」と異なり、全て幕臣(将軍直属の武士)によって構成されていました。
「御公儀は私が守る!」
御公儀(江戸幕府)を守るために生まれ育ったとも言える早之助は、幕末の動乱の中でその様な心持ちだったかもしれません。そして時は、慶応3年(1867年)11月15日を迎えます―――。
会津藩主の松平容保(まつだいら・かたもり)命を受けた見廻組の与頭(くみがしら)の佐々木只三郎(ささき・たださぶろう)は6人の剣客を引き連れ、とある醤油屋へ向かっていました。
「龍馬は前年に伏見の奉行所の同心を2人殺し、逃亡している。今回は取り逃がさず捕縛をしたいが、万が一の場合は討ち取っても構わぬ」
「私は只三郎様ほどではございませんが、小太刀の使い手です。私に先陣をお任せください」
「部屋の天井は低く刀は振り回せぬだろう。うむ、良い考えだな。ここは早之助に任せよう」
「ありがたきお言葉。御公儀を揺るがす不届き者を、私の小太刀で必ずや仕留めてみせます」
五ツ時(午後8時頃)を過ぎた頃、7人は近江屋の前にたどり着き、只三郎を先頭にして近江屋に入りました。
「私は十津川郷中の者であるが、坂本先生が御在宿ならばお会いしたい」
偽名を書いた手札(名刺)を龍馬の用心棒を務める元力士の藤吉に只三郎が渡すと、藤吉は龍馬にその手札を渡すために2階へと階段を登り始めました。見廻組の7人の内の3人は見張り役としてその場に残り、早之助は只三郎に従って、渡辺吉太郎(わたなべ・きちたろう)、高橋安次郎(たかはし・あんじろう)と共に4人で密かに藤吉の後を追いました。
まず4人は、奥の部屋にいた龍馬に藤吉が手札を渡して部屋から出てきたところに襲い掛かりました。
「ほたえな!」
藤吉が倒れた音を聞いた龍馬は、藤吉が悪さをして物音を立てたと思い、土佐弁で「騒ぐな」の意味の言葉を発しました。
(この奥の部屋に坂本龍馬がいる…!)
早之助は抜刀して刀を右手に持ち、襖に左手を掛けました。そして、只三郎から突撃の命が下され、早之助は先陣を切って部屋に飛び込みました。
「御免!」
部屋に飛び込むや否や、早之助は愛刀の小太刀を横に一閃! その一刀は、火鉢の北に座していた龍馬の額を激しく斬り付けました。背後の掛け軸に、龍馬の額の血が飛び散ります。同時に中岡慎太郎にも只三郎などが襲い掛かりました。部屋は怒号や悲鳴が飛び交い喧騒に包まれました。
何とか早之助に応戦しようとした龍馬は床の間に掛けた愛刀の「陸奥守吉行(むつのかみよしゆき)」を取ろうと背を向けました。早之助はその隙を見逃さず、二の太刀で右肩から左の背骨にかけて袈裟斬りしました。既に致命傷を負っている龍馬でしたが、何とか刀を手に取ります。しかし、抜刀する間はありませんでした。
「全ては御公儀への忠義である!」
早之助が振り下ろした刀を龍馬は鞘で受けました。早之助の一刀は凄まじく、龍馬の鞘ごと中の刀身を削り取っていました。続けて早之助は龍馬の鞘を払い、再び龍馬の額を斬り付けました。この一撃で、龍馬はとうとうその場に倒れ伏しました。
火鉢を挟んだ反対側には、只三郎などに後頭部や左右の手や両足を斬られた中岡慎太郎も血を流して伏せています。
「もうよい、もうよい」
只三郎の命が下ると、早之助たちは部屋を出て階段を降り、見張りの3人と合流しました。そして、襲撃現場となった近江屋を後にしました。
その後、7人の剣客は屯所であった松林寺(しょうりんじ)にたどり着きます。
「各々方、ご苦労であった」
龍馬を討ち取ったことを祝して、只三郎の音頭の下、祝いの盃を挙げました。平時は酒が飲めない早之助でしたが、この時ばかりは下戸を忘れて強かに酔いつぶれたと言います。
坂本龍馬を斬った功績を挙げた早之助は、それから2ヶ月後の慶応4年(1868年)1月3日に勃発した「鳥羽伏見の戦い」に幕府軍として参戦しました。しかし、新政府軍との激しい戦闘の末、翌日の4日に下鳥羽で左股に銃撃を受けて討死を遂げました。
その遺体は同志によって戸板に乗せられて大坂まで運ばれ、真田信繁(幸村)が築いた真田丸の跡地と言われる場所に建立された「心眼寺」に埋葬されました。戒名は「徳元院大誉忠愛義貫居士」。江戸幕府への忠義と愛を貫くことを誉れとしたような生き方をした早之助に相応しい戒名が付けられました。
早之助の死後、龍馬を斬った刀は早之助の子孫に伝わり、現在は京都の霊山記念館で目にすることができます。その刀身に残された激しい刃こぼれからは、近江屋での坂本龍馬との戦闘をはじめとした幕末の動乱の雰囲気を感じることが出来ます。