今年の5月に行われた「伊勢志摩サミット」で賢島の知名度はだいぶ上がっただろうか。文字通りの「島」なので警備しやすい理由から会場に選ばれたのだという。
さて俊足を誇る近鉄特急ではあるが、鳥羽を過ぎたあたりから急にスピードが落ちる。志摩線は昭和4年(1929)に開業した志摩電気鉄道というローカル私鉄の出身なので急カーブが多く、ある程度は致し方ない。それでも昭和45年(1970)に鳥羽線が開通して大阪・名古屋方面からの列車直通が実現した際、従来は国鉄と同じだった軌間(1067ミリ)を近鉄に合わせて1435ミリに改軌したのと同時に線路改良も行った。
開業時は鳥羽から賢島間に約1時間かけていたことを考えると、その後も引き続き行われた急カーブ解消や遠回りの短絡、急勾配区間に長いトンネルを掘って速く走れる場所を増やすなどの改良が功を奏し、鳥羽~賢島間の24.5キロを特急で30分、普通電車が40分で結べているのは大いなるスピードアップの成果だろう。これらの線路改良に伴って廃止された旧線のうち、特に大幅にルートが変わった2つの区間を歩いてみることにした。
写真を拡大 【白木・五知峠付近】 左上枠内/1:50,000「鳥羽」昭和4年鉄道補入 左/1:50,000「鳥羽」平成3年修正 右/1:50,000「鳥羽」平成19年要部修正
70年以上前に移転した白木の旧駅と勾配標
線形改良の最大の山場といえば、平成5年(1993)に開通した長さ2700メートルの青峰(あおみね)トンネルである。その名の通り青峰山(336メートル)を貫くものだが、旧線はこの峠をトンネルなしで越えていた。かなりの勾配であったらしく、手元に線路縦断面図はないが、この路線がかつて志摩電気鉄道として開業した際には最急勾配が33.3パーミル(30分の1勾配)だったそうだから、その数値に近いだろうと想像しながら国土地理院の「地理院地図」で計測してみると、峠の1.5キロ白木寄りの地点から五知峠(標高79メートル)までちょうど50メートル上がっていたので、これを計算すると見事に33.3パーミルと出た。まずはこの峠道の旧線をたどってみよう。
日程の都合でこの日しかない11月14日の月曜日はあいにく本降りの雨。昨日までは快晴だったのだが、格好の廃線歩き日和ということにする。


線路に立ち入るわけにはいかないので、交通量の多い国道167号を歩くことにした。この道は次の五知駅までほぼ廃線跡に沿っている。ただし白木駅からしばらくの間は国道から少し離れた山裾をたどるので、歩けるところがあれば行ってみよう。戦前のある時期(不明)まで、白木駅はこの集落の南側にあった。昭和4年(1929)鉄道補入の地形図には旧位置にあり、同19年部分修正でほぼ現在地に移っているので、この間に移転したらしい。これまで改軌を機に移設されたと誤解していたのだが、どんな理由で移転したのだろうか。いずれにせよ70年以上の歳月が経っているので、どれだけ駅の痕跡が残っているかはわからない。

国道から細道を南ヘ折れ、駅前の踏切跡と思しき道をたどる。敷かれたバラストがまだしっかり残っているので線路跡であることは間違いなく、地図で見当をつけてみると白木駅のプラットホームがあった空間らしいのだが、雑草も勢いよく茂っているので正直よくわからない。さらに草をかき分けながら少し進むと、勾配標が草に埋もれて立っていた。抜き忘れだろうが、新線移行から23年経ってよく生き残っていてくれた。13.3パーミル(75分の1勾配)。勾配標を撮影したのだが、カメラが「ストロボ禁止モード」のままだったのでシャッター速度が遅く、後で見たらブレているではないか。老眼だとそんなことも即座に判断がつかないので厄介だ。いずれにせよその数値の上り勾配なら駅構内ということはあり得ず、駅はやはりこの手前の先ほど想像した場所にあったに違いない。
しばらく草をかき分けつつ進むと、国道に近づいてきたあたりで草丈が高くなり、濡れた草の中を泳ぐのをやめて道へ降りることにした。犬釘を抜いた痕のある枕木やバラストが残っているので廃線なのは間違いないが、この先はしばらく国道歩きとしよう。いよいよ本降りなので、通り過ぎる自動車の水しぶきを気にしつつも歩くしかない。「仕事」とはいえ物好きである。
五知峠を越える急勾配の旧線
途中で石神神社の鳥居を目にしたのでくぐって境内へ入った。社殿は見つからないが、昔はあったのか。四阿(あずまや)があったのでありがたく一休みする。携帯してきたチョコレートとお茶で一服。ついでに下へ続く階段を降りて行けば川が流れており、そこから南側を覗くと、国道の橋梁の向こう側に近鉄旧線のガーダー橋が残っていた。その手前には作業員用の通路も蔓草に絡まれながらも健在である。最初のまとまった遺構だ。一服しなければ出会えなかったかもしれない。レールの載っていた鈑桁は枕木も外されているが、錆びはそれほどでもないので、まだ電車が走れそうだ。

国道に戻ると、線路跡が徐々に高度を増してこちらの国道より高くなってきた。廃線を見るには好都合である。平成5年(1993)まで大阪や名古屋から天下の「近鉄特急」が走っていた電化線なので、立派な架線柱の台座も各所に残っていた。しっかりしたコンクリートの台座も劣化は進んでいなさそうで、架線柱を支えたアンカーボルトのねじ山もしっかりしている。
そのうち徐々に線路の方が下がってきて国道脇を堀割構造で併走するようになると五知峠だ。峠の標高は79メートル、白木駅の約17メートルから62メートル上がってきたことになる。道路と併走する鉄道が当初は道路より上で、そのうち道路より下になる「現象」はどこでも見られるが、これは最急勾配の制限いっぱいの数値を維持するための措置である。道路は勾配がそれ以上急になっても余裕があるので地形に忠実に作れるのだが、線路は勾配を33.3パーミルで平均させるためには最初から一定に上っていく必要があり、最も急な峠の前後のみ切り通しにしたのだろう。これ以上急なら鉄道だけトンネルを採用したに違いない。

峠を越えると鳥羽市から志摩市に入る。国道167号を示すおにぎり標識の下には「志摩市磯部町五知」の地名。線路の切り通しとの境にはフェンスが張られ、「鉄道用地内へのゴミ不法投棄を禁止します。近畿日本鉄道(株)」の看板もあるのだが、その趣旨に反して堀割内はゴミが散乱していた。炊飯器など確信犯ゴミも混じっていて、伊勢神宮のすぐ裏山でこれは残念である。
別の標識には志摩スペイン村12.1キロ、伊雑宮(いざわのみや)4.8キロとあったが、上之郷駅のすぐ西側にあるこちらのお宮への足というのも、志摩電気鉄道の敷設目的であった。伊勢神宮内宮の別宮という伊雑宮の「集客力」には相当なものがあったのだろう。廃線に沿って坂道を下ると周囲が開け、五知の集落が見えてきた。道路に近い場所にはコンクリートの柵も残っており、時おりコンクリート製の境界標も見える。頭が朱色に塗られたそれには近鉄の社章が彫り込まれ、電車が走らなくなって四半世紀近いにもかかわらず「鉄道用地」を静かに主張していた。


五知駅が近づくと複線の立派な現在線が見えてくる。その手前に現われた旧線の橋台は道路を跨ぐもので、コンクリートの擁壁も含めて苔が覆い、その年月を感じさせる。その間に新線を新しい特急が駆け抜けていった。ほどなく着いた五知駅のホームはまだ新しいが、この駅も新線開通に伴って手前の白木方に移設されている。ホームから振り返ると青峰トンネルの大きな複線の坑口が間近だ。かつての五知駅はこの先の、集落から少し離れた場所に設けられたが、これは下り坂が終わっていない区間であったからに違いない。坂道の途中に駅を設置することができないからだろう。現在の駅は10パーミルの途中にあるが、これは停車場構内の上限である(前後は25パーミル)。

(後編に続く)