常に新たな視点を持ち、従来の研究では取り扱われなかった古代史の謎に取り組み続けてきた歴史作家・関裕二が贈る、『地形で読み解く古代史』絶賛発売中。釈然としない解釈も、その地にたてば、地形が自ずと答えてくれる!? 古代史重要地点をシリーズで紹介いたします。
それぞれの勢力の出身地を確認する

 ヤマト建国の事情に関しては、このあとじっくり考えるが、各地から諸勢力が集まってきたことは分かっていて、おそらく建国当初は、主導権争いがしばらく続いただろうし、疑心暗鬼も生まれただろう。

 だから、黎明期のヤマトは、緊張感に満ちた調整期間だったにちがいない。

 当然、いったんことが起きれば、一番安全な場所にいたいというのが、本心であろう。

 そこで、具体的に、どこからやってきた人たちが、奈良盆地のどこに住んだのかを探っていくと、興味深い事実が浮かび上がってくる。

 やはりみな、故郷にすぐに戻れる場所を選ぶのだ。それがもっとも分かりやすいのは、近江(滋賀県)を代表する和邇(わに)氏(枝族に春日氏や小野氏がいる)で、彼らが陣取ったのは、盆地の北側、現在の奈良市付近だ。

 藤原氏の氏神を祭る春日大社は、もともと和邇系春日氏の聖地だった。平城京遷都(七一〇)に際し、藤原氏に追い払われたわけである。

 なぜ和邇氏は奈良盆地の北部を選んだかといえば、近江に近かったからだろう。

 瀬田川(せたがわ)(宇治川)を下り、木津川流域の南山城(みなみやましろ)から奈良盆地北部にかけて、勢力圏を広げていたのである。

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 生駒山の西側の河内に陣取ったのは、物部氏と中臣氏だ。

 『日本書紀』『古事記』『先代旧事本紀(せんだいくじほんき) 』などに、物部氏の祖は天磐船(あまのいわふね)に乗って、舞い下りてきたニギハヤヒ(饒速日命)とある。

天神の子だから、天上界(高天原)からやってきたということになる。

 また『先代旧事本紀』によれば、中臣氏の祖は、饒速日命に従ってヤマトにやってきたとある。

 邪馬台国北部九州論が優勢だった頃、物部氏は天皇家の尖兵になって北部九州からヤマトに乗り込んだとする説があり、有力視されていた。遠賀川(おんががわ)の下流域に、物部氏の密集地帯があり、これらの地域から、彼らはヤマトに移動したというのだ(谷川健一『白鳥伝説』集英社文庫)。

    しかし、このあと触れるように、ヤマトに集まった土器の中に、北部九州のものはほとんどない。

 北部九州勢力は、ヤマト建国に完ぺきに出遅れていたのだ。

 ならば、「ニギハヤヒがいち早くやってきた」という設定を、どう考えれば良いのだろう。

 物部氏はどこからやってきたのだろう。

キーになる物部氏

 筆者は、ニギハヤヒは 吉備(きび)(岡山県と広島県東部。のちの備前、備後)出身とみる。

 物部氏の本拠地(大阪府八尾市)周辺から、三世紀の吉備系の土器が出土していることが大きい。

ヤマト建国の謎、物部氏はどこからやってきた?
▲吉備津神社(岡山市北区)

 もうひとつ、物部氏が西側からやってきたと思うのは、古代の大阪を支配し、さらに奈良盆地の西側一帯をおさえているからだ。

大阪府枚方市には磐いわ船ふね神社が鎮座し、ニギハヤヒが乗ってきた天磐船が巨大な磐座(いわくら)となって祀られている。

 このなだらかな峠を越えれば、奈良盆地だ。その先には、矢田坐久志玉比古(やたにいますくしたまひこ)神社(大和郡山市矢田町)が鎮座し、ニギハヤヒが天磐船から矢を三本射て、その一本がこの地に墜ちたと伝わる。

 蘇我系の聖徳太子が建立した法隆寺の一帯(斑鳩(いかるが))も、元々は物部系豪族の土地だ。

 奈良盆地の西側の入口をことごとく物部氏がおさえているように見える。

 『日本書紀』の神武東征の場面で、神武天皇もニギハヤヒも「天神 (あまつかみ) の子」と記され、だからニギハヤヒは神武天皇に王権を禅譲したと記されるが、これにはカラクリがある。

 ヤマトの王は祭司王であり、かたや物部氏は、もっとも重要なヤマト周辺の拠点を、しっかりおさえている。ニギハヤヒは名を捨て実をとったのだった。

 そして、天皇は物部氏の祭祀形態を継承したのではないか、とする説があり(吉野裕子『大嘗祭』弘文堂)、事実他の豪族にはけっして見られない形で、物部氏は王家の祭祀に深くかかわっている。

 物部氏の呪文「 一二三四五六七八九十布瑠部由良由良止布瑠部(ひふみよいむなやことふるべゆらゆらとふるべ)」も、天皇家は受け容れている。

 物部氏は、ただの古代豪族ではない。

ヤマト建国の謎、物部氏はどこからやってきた?
『一冊でわかる イラストでわかる 図解古代史』( 成美堂出版、2013)参考。
国土地理院・色別標高図を基に作成

 ここで注目しておきたいのは、ヤマト建国の象徴となった前方後円墳のことだ。いくつかの地域の埋葬文化が寄せ集められて、あの独特な墳墓が生まれたのだが、吉備の影響力がもっとも強かった。

 前方後円墳の原型は、まず吉備に出現していたのだ。

ヤマト建国の謎、物部氏はどこからやってきた?
▲吉備津神社(岡山市北区)

 ヤマト建国の直前、吉備に楯築弥生(たてつきやよい)墳丘墓(岡山県倉敷市。双方中円式(そうほうちゅうえんしき)墳丘墓)が出現していたが、これは円形の墳丘の左右に方形の出っ張りが付け足されたもので、片方の出っ張りを削れば、前方後円墳になる。

 また、楯築弥生墳丘墓の墳丘上では、特殊器台(とくしゅきだい)形土器と特殊壺(つぼ)形土器が並べられたが、この土器も、前方後円墳で採用されている。物部氏の本拠地・八尾市でみつかったのが、この吉備の特殊器台形土器だ。

 物部氏が吉備出身で、しかもヤマトの祭祀の中心に立っていたにちがいないのである。

地形で読み解く古代史』より

 

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