慶応元年(1865)十月二十八日のこと。夜の六ツ半(午後七時ころ)過ぎ、湯島天神の門前にある料理屋に町人の男六人があがり、座敷に芸者三人を呼んで酒宴を開いた。
芸者置屋の若い者ふたりが提灯を持ち、芸者三人は連れ立って帰途につく。天神下の、備中庭瀬藩板倉家の屋敷のあたりを歩いていると、暗闇の中から武士が白刃をひらめかせて飛び出してきた。武士は刀で提灯を叩き落した。
「わっ、助けてくれ」
若い者ふたりと、芸者のふたりは提灯が消えた闇を利用して逃げ去る。お島という芸者ひとりが逃げおくれ、つかまってしまった。
「衣類から腰巻まで、すべて脱いで、こちらに渡せ。声を立てると、斬り殺すぞ」
武士は刀でおどす。お島はさからわない。
「承知いたしました。身につけているものはすべて脱いでお渡ししますから、まず刀をお収めくださいな」
「うむ、よかろう」
武士は刀を鞘に収めた。お島は着ているものを順番に脱いでいく。
「な、なにをするか」
予期しない事態に動転してしまい、武士は頭上からすっぽりかぶせられた腰巻をなかなかはずせない。そのスキに、お島は真っ裸のまま逃げ出した。事件後、つぎのような落首(世相を風刺する歌)が出まわった。
ふんどしのうまひ匂ひにかぎほれて
まごつく内に皆んな逃げられ
この「ふんどし」とは、女の腰巻のことである。
『藤岡屋日記』に拠った。武士は女を丸裸にしたあと、奪ったものを持ってすみやかに立ち去るとは思えない。おそらく、物陰などに連れ込もうとしたであろう。その意味では、すべて奪われたとはいえ、腰巻をかぶせてそのすきに逃げ出したのは正解であろう。とっさの機転である。
しかし、百戦錬磨の芸者だったからこそ、こういう機転を働かせることもできた。