『2020年からの教師問題』(ベスト新書)の著者・石川一郎先生にお話を聞いた。
◆そもそも、なぜゆとり教育は生まれたのか
「ゆとり教育」誕生の少し前、バブル崩壊が起きました。この出来事は、教育現場の空気を大きく変えたと言って間違いないでしょう。
1990年代、「努力」や「頑張る」といった言葉が、何となく、生徒と接する上で違和感を持つようになってきました。今思い起こすと、日本社会が成長という神話を失っていくにつれて、「努力をしても報われないのではないか」と考える風潮が社会に広がっていったのです。
また、90年代も後半になると、第2次ベビーブームの子供たちの大学進学の時期も過ぎ去り、大学受験の厳しさもかなり緩和されてきました。大学に入学するために以前ほど努力を必要としなくなりました。
教育現場では、それまで教師が重視していた価値観である「努力」という言葉が、生徒に対して使いにくくなりました。
また、原因は一概には言えないと思いますが、不登校の生徒の増加が、社会的に問題になってきたのもこの時期です。
そういった時代の移り変わりの中で、文部省(当時)は、21世紀の教育をどのように展開するかを考え、それまでの教育の在り方を見直し、教育課程をどのように変えるかの検討をします。
そして、今からおよそ20年前、1996年に中央教育審議会は、文部大臣から「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」の諮問を受けます。その後「ゆとり教育」と呼ばれる教育への方向を示す以下の答申をしています。
ここでは、社会の変化に教育が対応出来ていないことを指摘しており、生徒を自立・自律させることを教育の根幹におくように求めています。
こうして2002年、次の四つの改正に代表される新たな教育体制が生まれます。
◎学習内容及び授業時数の削減
◎完全学校週5日制の実施
◎「総合的な学習の時間」の新設
◎絶対評価の導入
一般に「ゆとり教育」とは、この時の学習指導要領の内容を指します。
◆巻き起こったゆとり批判、それを追い風にする私学 2012年9月5日から、朝日新聞は「脱ゆとりの真相」という記事を3日間にわたって掲載し、「ゆとり教育」に関する当時の議論を紹介しています。
その記事の内容を一部紹介します。
『3.14が3になる』
『さよなら台形君』
1999年秋、大手学習塾『日能研』が関東一円で新聞の折り込み広告や駅のポスターでそうした宣伝文句をうたった」
この大手塾の宣伝から、「ゆとり教育」に対する風向きが変わったとしています。つまり、その内容について批判が相次いだのです。
98年から文相に就任していた有馬朗人は、「学校はきつきつの授業で生徒を画一的に教え込み、ゴムが伸びきったような状態で大学に送り込んでくれるな」と言って全国を回っていましたが、「ゆとり教育」に対するバッシングは止まりませんでした。
そのことを有馬氏は以下のように回想しています。
「受験人口の減少で危機感を持った私立には公立の教育内容が薄くなるという情報は渡りに船だった。この宣伝と結びつき、新学習指導要領の不信感を結果的に高めたのではないか」
この結果「ゆとり教育」は、方向転換を図らざるを得なくなったのです。◆むしろ推し進めてしまった「詰め込み型教育」
私自身、当時のことを思い起こすと、「ゆとり教育」は、その本質的な内容に関する議論があまり行われていなかったと思います。
それどころか、朝日新聞の記事の通り、多くの私学は、少子化の中で生徒が減ってきた状況を打破する絶好の機会ととらえ、「ゆとり教育」に対するバッシングをすることで生徒集めにつなげるキャンペーンをはりました。
私は、ずっと私立学校で教師をしていますが、この時、多くの私立学校では「ゆとり教育」に追随せず、授業時間の削減もすることなく、大学受験をピラミッドの頂点とする学習の在り方をより強化する方向に舵が切られました。
「自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する」という方針に対して、知識を徹底的に教え込まれるという教育が展開されたのです。
残念ながら、「ゆとり教育」により、当時の有馬文相が懸念していた「きつきつの授業で画一的に教え込む」方向により進む結果となってしまいました。
しかし、21世紀も十数年が過ぎ、教育を取り巻く外部環境の変化は、「ゆとり教育」導入時に議論されたように、大きなものになりました。そして、今後の社会に予想される激しい変化には、現状の教育では対応できないのではないかという議論が再燃しています。
さらに今、社会の求める人材と現行の教育で供給される人材とのかい離が、社会で大きく叫ばれるようになりました。
その結果文科省は、2014年、高校教育、大学教育、大学入試の一体的な改革を推進することになったのです。
文科省が推進することを決めた教育改革とは、一体どのようなものなのでしょうか――。
学校教育に関して言えば、知識詰め込み型の授業を脱却し、主体的・対話的な深い学びをすることによって、文科省が新たに重要視している「学力の3要素」を備えた人材を育成することが求められています。
学力の3要素とは、文科省が今回の教育改革に合わせて定めた一種の教育目標です。具体的には、
◎十分な知識・技能
◎それらを基盤として答えが一つに定まらない問題に
自ら解を見いだしていく思考力・判断力・表現力の能力
◎これらの基になる主体性を持って多様な人々と協働して学ぶ態度
と定義されています。
これはあくまで高校教育に対する文科省からの要請ですが、高校で必要な学力のベースは当然、それ以前の中学校、小学校で作られるべきですから、教育改革の影響は実質広範囲に及びます。
さて、ここで思い出していただきたいのが、先に示した中央教育審議会の「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」の答申です。
これが「ゆとり教育」の方向へと舵を切るきっかけになったことは前に述べた通りですが、その答申の中で、これからの子どもたちに必要となるのは「自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決するる資質や能力であり、また、自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心など、豊かな人間性」とされていました。
今、文科省が取り組んでいる改革の目標である「学力の3要素」の内容と、非常に近しいものを感じないでしょうか。つまり、この度の教育改革の方向性と「ゆとり教育」が目指していた方向性はとてもよく似ているのです。
ゆとり教育の理念はやはり正しかった――今回の改革は、その事実の大きな裏付けになったと言っても過言ではないでしょう。すると、ゆとり教育に関して問題だったのは議論の不足、間違っていたのは運用方法と言うほかありません。
最近、上の世代の人たちが、ゆとり教育を受けて育った下の世代を「ゆとり世代」として、安易に批判の対象としているのをよく目にしたり、耳にしたりしますが、彼らを非難することはすなわち、「ゆとり教育」の理念にふさわしい方法で導くことのできなかった自分たちの世代を、自ら非難していることに等しいのではないでしょうか。