佐久間象山遭難之碑(京都市上京区木屋町)織田信長、真田幸村、井伊直弼、坂本龍馬―――。日本史上、暗殺や討死によって最期を遂げた有名な人物は数多く存在する。
では、その実行犯となったのは、どういった人物だったのだろうか!? これは、一般的にはマイナーな『日本史の実行犯』たちの物語!

 

 門下生に坂本龍馬、勝海舟、吉田松陰などを持つ、松代藩(長野県長野市)が生んだ幕末の兵学者・佐久間象山―――。江戸幕府の滅亡や明治維新のきっかけを創った象山を暗殺した人物こそ『人斬り彦斎』の異名を取る「河上彦斎(かわかみ・げんさい)」という一人の志士だったのです。

 実名を「玄明(はるあきら)」という彦斎は、天保5年(1834年)11月25日に肥後藩士の小森貞助の次男として生まれました。同年には新選組の近藤勇や越前藩士の橋本左内などが生まれています。
 初名は「小森彦治郎」といい、11歳頃に同じく肥後藩士の河上源兵衛の養子となりました。藩校の時習館で学んだ後に、16歳の時に藩主の細川家の御花畑邸の掃除坊主となり、僧籍であるため名を「河上彦斎」と改めました。名の読みについてですが、一般的に「げんさい」と読まれることが多いですが、河上家では「ひこなり」と言っていたそうです。

『人斬り彦斎』という異名を持つことから、無学で残虐な豪傑を連想してしまいそうですが、そうではありません。背丈は5尺(≒150cm)を超すか超さないかであり、色白で痩せ型、普段は女性のような柔らかい声を出していたそうです。また、幼少期から藩校の時習館で学んだと言われ、掃除坊主に出仕後には茶道や生け花和を学び、和歌や漢詩を嗜み生涯で数多くの歌を残すなど、風流人という一面も持っていました。

 嘉永4年(1851年)、18歳になった彦斎は参勤交代に付き添いで初めて江戸に訪れ家老付の坊主に出世しました。翌年に熊本へ戻りますが、嘉永7年(1854年)2月に再び江戸詰を仰せ付かり、江戸藩邸に勤めています。

この時、彦斎にとって大きな出来事が起きました。
 江戸幕府がペリーの威に屈して「日米和親条約」を結んでしまったのです。条約は同年の3月3日に結ばれていますので、彦斎が江戸へ訪れて一ヵ月前後に起きたことになります。さらに、アメリカだけでなくイギリスやロシア、オランダとも同じように不平等条約を結んでしまいました。
 熊本の尊王攘夷派の学者である轟武兵衛(とどろき・ぶへえ)や宮部鼎蔵(みやべ・ていぞう)などを師事していた彦斎には憂国の思いが色濃く刻まれたことでしょう。

 安政3年(1856年)に熊本へ戻った彦斎は国学者の林桜園(はやし・おうえん)の「原道館(げんどうかん)」に入り、儒学や兵学、国学などを修め、尊王攘夷の精神を純粋で強いものにしていきました。ちなみに、この桜園の塾の門下生は1400人以上だったと言われ、彦斎の他、横井小楠、吉田松陰、大村益次郎などが学びました。

 彦斎は文久年間(1861年~)から尊王攘夷派の志士としての活動を活発にしていきます。そのきっかけは清河八郎との出会いでした。八郎は、後に新選組の母体となった浪士組を結成するなど、諸国の志士たちを説き伏せ、尊王攘夷派を創出して結託させようとした活動家でした。
 八郎と邂逅した彦斎でしたが、時流に追いついていけない熊本藩は、積極的に政局に関わろうとはしません。そこで彦斎は八郎に働きかけて朝廷に政治工作を行ってもらい、朝廷から熊本藩に朝廷警護の役目を仰せ付かりました。

 

 そして、文久2年(1862年)に藩主の弟である長岡護美(ながおか・もりよし)の上洛に警護として随行し、政局が混乱を極めている京都へと初めて訪れることになったのです。これに伴って、彦斎は僧籍を解かれ、蓄髪(ちくはつ)が許されました。さらに翌年には藩選抜の親兵となって、尊王攘夷派の公家の三条実美(さんじょう・さねとみ)の信頼を受け、肥後勤王党の幹部格として認められるようになりました。

 この頃、彦斎は「尊王の志士として励むよう」という旨の手紙を実美から送られています。これに感激した彦斎は故郷の息子に、その手紙を送り、それに以下のような自身の歌を添えました。

「君のため 国のためにと 尽くすわが この身ひとつぞ なほ(なお)たの(頼)みなる」

 この身一つある限り国のために尽くしてみせる、という彦斎の強い思いが感じ取れます。

 この時期、彦斎はかなりの人数を斬ったと言われています。これが『人斬り彦斎』と言われる所以です。剣術は、僧籍にいたことから我流であり、右足を一歩前に踏み出し、左足を後ろに伸ばして、膝が地に着きそうな低い姿勢から右手だけで敵の胴を薙ぎ払う独自の剣法であったと言われています。
 後に勝海舟が、この頃の彦斎のことを「河上はひどい奴さ。こわくてこわくてならなかったよ」と冗談まじりに振り返っています。

 尊攘活動を盛んに行った彦斎ですが、「八月十八日の政変」により尊攘派の牽引役である長州藩は京都から追放され、政局は公武合体派(薩摩藩や会津藩など)が握ることとなりました。

この政変に伴って、三条実美などの尊攘派の公家8人は長州藩に落ち延びています。世に言う「七卿(しちきょう)落ち」です。この時、彦斎は実美に伴って長州藩に入っています。
 熊本藩は依然として積極的に動かず、幕府派としての立場を変えようとしなかったため、同じ志を持つ長州藩と行動を共にしようと考えたようです。

 時局は彦斎にとってさらに悪化していきました。政変によって処罰を受けることになった長州藩は、穏便な処分にしてもらうため宮部鼎蔵らは朝廷に嘆願をしようとしますが、公武合体派が朝廷に影響力を持っていたため、これが認められません。
 そこで宮部は、公武合体派の諸侯を狙った強硬手段に移ろうとしました。それは「強風に応じて御所に火を放ち、中川宮(なかがわのみや)を幽閉し、一橋慶喜(後の徳川慶喜)や松平容保(かたもり:会津藩主)を暗殺して孝明天皇を長州に連れ去る」というものでした。

 この計画は事前に察知され、宮部らの尊攘派の志士たちは会合の最中に襲撃を受け、討死もしくは捕縛されてしまったのです。これが有名な、新選組による「池田屋事件」です。
 自らの師でもある宮部の悲報を長州で聞き、激しく憤った彦斎は、宮部の仇討をするために直ちに京都に上りました。そして、公武合体派の根源を絶つことを心に決めました。

彦斎にとっての公武合体派の根源―――。それこそが佐久間象山だったのです。
 この時、象山は幕府の軍政顧問として上洛しており、日本が時世を乗りきるために公武合体や開国を唱えていたのです。朝廷を重んじ、外国に媚びる必要はないと考える尊王攘夷派の筆頭の彦斎にとって、象山は正に仇として映ったことでしょう。

 そして、時は元治元年(1864年)7月11日を迎えます―――。象山は山階宮(やましなのみや)邸に伺候した後、松代藩の宿所である本覚寺に寄り、寝泊りをしている三条木屋町の旅館に騎馬で戻ろうとしていました。
 この時、象山が乗っていた馬は名を「王庭」といい、松代から連れてきた逸物でした。その名馬に西洋の鞍を置き、西洋の鞭を揮って御していたと言います。
「西洋かぶれ」と呼ばれ尊攘派から敵視されていた象山ですが、自信過剰で傲岸不遜なところがあり、天誅吹き荒れる京都で命が狙われようとも、己の言動を変えませんでした。これが尊攘派の志士たちを余計に刺激したようです。

 彦斎は旅館にたどり着く前に象山を暗殺しようと、三条小橋付近に潜んでいました。刺客は彦斎以外に壱岐藩士の松浦虎太郎、因州藩士の前田伊右衛門がいたと言います。

刺客の数や名は史料によって異なるのですが、どの史料にも共通している点があります。それはいずれの書にも「河上彦斎」の名が記されているということです。

 時刻は正午過ぎ―――。

 西洋鞭を握り、西洋鞍を置いた馬に跨った象山の姿が見えました。そして、彦斎たちが潜む三条小橋に差し掛かり、宿へ向かう路地に入りました。
 その瞬間、松浦・前田が路上から飛び出し、馬上の象山を挟み撃ちするように襲い掛かりました。

 象山は左股を斬られたものの、馬腹を蹴って鞭を叩き、馬を走り出させました。松浦と前田が後を追いますが、間に合いません。象山は必死に宿を目指しました。しかし、宿を目前にしたところで、象山の目の前に小柄な刺客が飛び出して立ちはだかりました。河上彦斎でした。
 彦斎は迷いなく馬の脚を薙ぎ払い、馬は大きな嘶きと共に倒れ、象山は落馬してしまいました。

 そして、次の瞬間―――。彦斎は低い姿勢から象山の胴を斬り抜きました。

 

 何とか応戦しようと抜刀した象山でしたが、その隙に彦斎は二太刀目を振り下ろしました。
 駆け付けた松浦、前田も斬りつけ、象山は絶命しました。

 暗殺を遂げた彦斎は、祇園社の前に今回の天誅の理由を述べた「斬奸状(ざんかんじょう)」を掲げたと言われています。

松代藩 佐久間修理(象山)

この者、元来、西洋学を唱え、交易開港の説(開国論)を主張し枢機(政権)の方へ立入り、御国これを誤り候。大罪、捨て置きがたく候処。あまつさえ(加えて)近日、奸賊・会津彦根の二藩へ与同し、中川宮と事を謀り、恐れ多くも九重(ここのえ:天皇)、御動座、彦根城へ移し奉り候儀を企て、昨今しきりに、その機会を窺い候。大逆無道、天地に容るべからざる国賊につき、すなわち今日、三条木屋町において天誅を加へ畢(おわ:終)る。

但し、斬首・梟木(きょうぼく:さらし首を掛ける木)に懸く(架ける)べきの処、白昼につき、その儀あたわざる(出来ない)もの也。

     元治元年七月十一日

              皇国忠義士

「西洋学を唱えること」「開国論を主張すること」「国の方針を誤らせていること」「天皇の御動座を企てたこと」が、尊攘派の彦斎たちにとって「大逆無道」「国賊」と映り、「天誅」を加えたことがわかります。また、白昼の出来事であったことから、斬首をしてさらし首に架けることが出来なかったとも記されています。

 さて、『人斬り彦斎』の異名を取った彦斎ですが、実際に記録に残っている人斬りは象山だけです。そして、これが最後の人斬りとなったと言われています。彦斎は象山暗殺を後にこう振り返りました。
「余人を斬る、なお木偶人(もくぐうにん:人形)を斬るがごとく、かつて意に留めず。しかるに象山を斬るの時において、はじめて人を斬るの思いをなし、余をして毛髪の逆竪て(逆立て)に堪えざらしむ。これ、彼(象山)が絶大の豪傑なると、余の命脈すでに罄く(つく:尽きる)の兆(きざし)にあらざるなきを得んや。今より断然、この不詳的の所行(人斬り)を改めて、まさに象山をもって、その手を収めんのみ」

 象山を斬る時に、象山の豪傑さゆえに髪の毛が逆立ち、初めて人を斬る思いが生じたそうです。そして、これは自分の命が尽きる前兆であると感じ、これ以降、人斬りを止めたといいます。
 彦斎は、この暗殺の8日後に起きた「禁門の変」に長州軍として参戦しますが、敗戦し、長州軍と共に再び京都を落ち延びます。しばらくの間、身を隠していた彦斎ですが、高杉晋作が「奇兵隊」を組織して挙兵すると、これに呼応して一隊を組織して参戦します。そして、慶応2年(1866年)の「第二次長州征伐」では長州軍として戦い、幕府軍に勝利を収めています。

 その後、時局に乗りきれない佐幕派の熊本藩を説得するために帰藩しますが、彦斎の尊攘活動を警戒した藩によって、彦斎は捕えられて1年半ほど投獄されてしまいます。そのため「大政奉還」「王政復古の大号令」「戊辰戦争」などの時期は獄舎で過ごすことになりました。
 しかし結局は、尊攘派の勢力によって倒幕が成し遂げられたことから、藩は慌てて彦斎を解放します。解放された彦斎は、明治元年(1868年)から尊王について遊説するために中山道や東北地方の諸藩を回りました。この時、藩主の勧めで名を「高田源兵衛(こうだ・げんべえ)」、後に「高田源兵」と改めています。

 この遊説の途中、象山の故郷である松代藩に立ち寄った時の逸話が残されています。彦斎は宴席で、一人の松代藩士に「当藩には佐久間象山という先覚者がいました。しかし、貴藩の河上彦斎に暗殺されました。その息子の恪次郎(かくじろう:別名「三浦啓之助」=元・新選組隊士)は仇討ちのために国を出ています」と言われました。
 すると、彦斎は「私は河上彦斎をよく知っています。たいへんな腕前ですが、息子の本懐を遂げさせてやりたいものです」と眉ひとつ動かさず、冷静に返したと言われています。

 ひたすらに尊王攘夷を説きまわった彦斎ですが、時代とは全く逆行していました。同志であった長州藩を中心とした明治新政府や朝廷は、方針を「開国」に変えてしまったのです。
 彦斎はこれに激怒し、さらに尊攘活動を行おうとしますが、明治2年(1869年)に熊本藩の飛び地である鶴崎(大分県大分市)に左遷されてしまいます。これは、新政府に危険視される人物を熊本に置いておくわけにはいかなかったためであるようです。

 鶴崎に移った彦斎は、兵士隊長を務める一方で兵士たちを教育するための学校「有終館」を設立し、兵法だけでなく、国学などについて教育を始めました。
 しかし、ある時、奇兵隊脱出騒動の首謀者として長州藩から追われる身となった、同志の大楽源太郎(だいらく・げんたろう)が有終館に逃げこんできました。「一緒に挙兵をしてくれないか」という願い出を彦斎は断ったのですが、源五郎を匿ったことで、彦斎は鶴崎の兵士隊長の任を解かれて熊本に戻ることを命じられ、有終館は解散となってしまったのです。

 熊本に帰った彦斎は大楽を匿った罪で、再び投獄されてしまいます。そして、裁判を行うため、間もなくして東京へ護送されることになりました。
 熊本を離れる際、彦斎は次のような一首を詠んだと言われています。

「火もて 焼き水もて 消せど変わらぬ わが敷島(しきしま)の 大和魂」

 自分の熱い信念は変わることはないという、彦斎の想いが込められています。

 吉田松陰なども投獄された小伝馬町の牢屋敷に送られた彦斎を担当した裁判官は、かつて勤王の同志であった岩国出身の玉乃世履(たまの・よふみ)でした。
 維新三傑の木戸孝允(きど・たかよし)から欧米視察前に「彦斎は一世の豪傑であるが、このまま放置すれば必ず国家に害をなす。帰ってくるまでに始末しておいてくれ」と言われていた玉乃は断罪を下すに忍びないと思い、彦斎を呼び出してこう説得したと言います。

「貴兄の気持ちはわかるし、それも一理はあるが、すでに今日は時勢が一変しています。どうぞ現政府のなすところに協力して下さらぬか。小官(玉乃)は切に国家のために、そして貴兄のために心から勧めたい」

 彦斎は玉乃の言葉に対して、こう答えたと言います。

「御厚意ありがとう。しかし、自分の尊攘の志は、神明に誓い、同志と約し、死生必ず背くまいと誓ったものである。しかして同志の多くは、この誓約のもとに殉じていったのである。今日に及んで、生命を惜しんで、その約に背き、志を改めたら自分はどうなるだろう。ああ、時勢が一変したのではござらぬ。政府の諸君が自己の安逸を願って尊攘の志を捨て『時勢が変わった』というのである。自分は徹頭徹尾一身の利害のために素志(そし)を改め、節を変えるなど、そんなこと出来申さぬ」

 明治4年(1872年)12月4日―――。
 彦斎は日本橋の小伝馬町にて斬首されました。享年38でした。

 漫画「るろうに剣心」の主人公の緋村剣心は、この彦斎がモデルであると言われています。

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