江戸時代、親が娘を女郎屋に売るのはごく普通のことであり、社会的な非難も受けなかった。
下谷の町人が、雑司ヶ谷あたりの農家の十二歳の娘を養女にもらった。「ゆくゆくは、息子の嫁にします」と言い、樽代(謝礼)として農家に二両を渡した。
その農家は子供が多くて生活も苦しかったのであろう。口減らしができるうえに、樽代の二両をもらい、大喜びだった。
ところが、しばらくすると町人は、娘を吉原の妓楼に十八両で売り渡してしまった。
たまたま娘を吉原の妓楼で見かけたという人に知らされ、実の母親がたしかめると、遊女に売られたのに間違いはない。母親は町人の非道を、町奉行の根岸肥前守に訴え出た。
根岸肥前守は寛政十年から文化十二年まで南町奉行の任にあった。訴えを聞き、根岸が言った。
「いったん娘を養女に出した以上、すべて先方の親の了見次第じゃ」
「このままではあまりにも娘が不憫でございます。どうか、ご吟味をお願いいたします」
母親のたっての願いを受け、根岸は調べに乗り出した。
根岸が町人を奉行所に呼び出し、いきさつをたずねた。町人はこう答えた。
「養女にもらい、やがて倅の嫁にするつもりだったのですが、商売が思わしくなく困窮したため、心ならずも吉原に奉公に出しました」
「なるほど。では、倅はいま、どうしておるか」
「やはり奉公に出しました」
ここにいたり、根岸がしかりつけた。
「この不届き者め。そのほう、息子を陰間奉公にでも出し、娘を吉原に売り飛ばしたか。必ず娘を取り戻し、元の親に返せ」
こうして、根岸は売られた娘を吉原から取り戻してやったが、実の母親に引き渡すに際して、こう釘を刺した。
「いったん娘を取り戻したあと、内藤新宿などの女郎屋に売るつもりだとしたら、絶対に許さぬぞ。家に置いておき、きちんと嫁入りさせよ」
当時、娘を食い物にする親は少なくなかった。根岸はそんな事情を知っていたので、実の親にも釘を刺したのであろう。
根岸は名奉行といわれた。江戸の庶民の事情を知り、それを踏まえた上で判決を下したからである。