織田信長、真田幸村、井伊直弼、坂本龍馬―――。日本史上、暗殺や討死によって最期を遂げた有名な人物は数多く存在する。
では、その実行犯となったのは、どういった人物だったのだろうか!? これは、一般的にはマイナーな『日本史の実行犯』たちの物語! 
日本史の実行犯 ~あの方を斬ったの…それがしです~ 扇谷上杉...の画像はこちら >>
暗殺現場と言われる上杉氏の糟屋館跡(神奈川県伊勢原市)

 

 戦国時代初期にその名を轟かせた文武兼備の名将・太田道灌―――。
 江戸城を築城し、現在の東京の基礎を造ったと言われる道灌は、主君の館に呼ばれ謀殺されました。その時に道灌を斬った人物こそ「曽我兵庫(そが・ひょうご)」という者だったのです。

 「曽我兵庫助(ひょうごのすけ)」とも言われる兵庫の生年については、詳しくわかっていません。主君の上杉定正の生年は1446年(1443年とも)であり、後に討ち取ることになる同輩の太田道灌の生年は1432年生まれなので、兵庫もそれに近い生年だったかもしれません。
 曽我氏は相模国足柄下郡曽我郷(神奈川県小田原市)を本拠地としていました。曽我氏の中でも、鎌倉時代初期の祐成と時致(ときむね)の兄弟は、父の仇である工藤祐経を討ち取り「曽我物語」として歌舞伎や能などで演じられたことで知られています。この仇討ちは武士の鑑とされ「日本三大仇討ち」の1つに数えられています。兵庫もこの曽我氏の一族であると考えられています。

 兵庫が仕える上杉家は「関東管領(かんとうかんれい)」を務める一族でした。関東管領というのは、室町幕府が関東を治めるために設立した「鎌倉公方(かまくらくぼう)・足利氏」を補佐するための役職のことをいいます。
 その関東管領・上杉氏は、それぞれ居館を置いた鎌倉の地名に因み「山内(やまのうち)上杉氏」、「犬懸(いぬがけ)上杉氏」、「宅間(たくま)上杉氏」、「扇谷(おうぎがやつ)上杉氏」の4つの家に分かれていました。


 兵庫が仕えた上杉氏というのは、扇谷上杉氏であり、道灌が仕えたのも兵庫と同じ扇谷上杉氏でした。

 4家の中で主に関東管領を務めたのは、山内上杉氏と犬懸上杉氏(当時は既に没落)であったため、扇谷上杉氏にとって山内上杉氏は主にあたる存在でもありました(宅間上杉氏も既に没落していた)。
 つまり、まとめると「室町幕府―鎌倉公方(足利氏)―関東管領(山内上杉氏―扇谷上杉氏―太田道灌/曽我兵庫)」という主従関係ということになります。

 しかし、鎌倉公方・足利氏は関東管領・上杉氏と争い(永享の乱)を起こし、また幕府にも反発したため(享徳の乱)関東から追われることになりました。その追われた先が古河(茨城県古河市)であり、鎌倉公方ではなく「古河公方」と名乗るようになりました。その後、関東は関東管領が治めることとなるのですが、古河公方もまだ健在であり、関東は「関東管領」と「古河公方」の対立を中心とした合戦が度々繰り広げられていました。

 

 さて、道灌を出した太田氏は元々、扇谷上杉氏の家宰の家柄であり、道灌の父の道真(どうしん)の頃から特に重用され、道灌もまた父同様、もしくはそれ以上に重用され側近として力を発揮していました。
 山内上杉氏の家宰である長尾景春(ながお・かげはる)が起こした反乱(長尾景春の乱)においては、すぐさまに乱を鎮圧し、その名を轟かせました。また、古河公方の勢力と戦うための拠点として国境(利根川沿い)に多くの城郭を築き上げました。それが江戸城や河越城、岩槻城だったのです。

 古参の重臣だった太田氏に対して、兵庫は新参の家臣だったと言われています。
 一説によると、道真に目を懸けられて家中で引き立てられ、頭角を現していったそうです。

その結果、主君の定正の養嗣子(後継者)である上杉朝良(ともよし)の家宰を務めるまでになっていました。
 朝良は武将としては頼りない文弱な少年であったといいますので、家宰を務める兵庫には強い責任感が芽生えていたかもしれません。

 2人が仕える扇谷上杉氏は、戦乱真っ只中の関東において、勢力を減退させるどころか拡張させることに成功しました。これはひとえに道灌の活躍によるものでした。
 しかし、この道灌の活躍が、兵庫と道灌の運命を決定付けることになってしまったのです。
 戦勝に次ぐ戦勝の結果、道灌の名声は関東中に響き渡り、道灌の主君である扇谷上杉氏だけでなく、主君の主君にあたる山内上杉氏をも凌ぐほどになっていました。
 先年、長尾景春(山内上杉氏の家宰)が大きな反乱を起こしたばかりであったことに加え、道灌が出仕(主君への面会など)を行わずに江戸城と河越城の改修を重ねていることから、両家の上杉氏にある疑心が生まれてしまいます。

 「道灌は謀反を起こすのでは…?」

 そして、兵庫をはじめとした扇谷上杉氏の家臣たちは「道灌が家政を独占している」と道灌に大きな反発心を持っていました。
 また、道灌自身も同輩に宛てた書状で、主君の山内上杉氏や扇谷上杉氏に対して「御家中が整っていない」「徳が備わった人がいない」「無人な扱いをされるのは不運至極」など不満を述べています。
 そのため、「道灌謀反」の噂は両上杉氏の家中では、いつの間にか確かなものへと変わっていってしまったのです。

 そして、時は文明18年(1486年)7月26日を迎えます―――。
 道灌は主君の上杉定正に招かれ、相模国の糟屋館(神奈川県伊勢原市)に向かいました。


 兵庫は、主君と共に館で道灌の到着を待っていました。
 道灌は館に到着して定正への面会が終えると、風呂に入ることを勧められました。
 「今宵の宴に向けて、戦場の垢を洗い流してはいかがか」
 そのようなことを言われたのかもしれません。
 道灌は館の一角にある風呂屋に向かい、風呂に入り始めました。
 当時の風呂は、現在でいう蒸し風呂のような形態をしていたと言われています。

 兵庫はその時、主君の命によって、白刃を携えて風呂の小口(にじり口)の側近く息を潜めていました。
 間もなくすると、道灌が風呂から出てくる雰囲気が感じ取れました。
 「一刀で仕留める…!」

 

 そして、道灌が小口から出てきた瞬間―――。
 兵庫が振り下ろした一太刀は、道灌を捉えました。
 「当方(とうほう)滅亡!」
 道灌は最期にそう叫んで絶命したと言います。

 「当方滅亡」、つまり「私を失った当方(扇谷上杉氏)は近いうちに滅亡するであろう」ということを予言して亡くなったのです。

 その後、道灌を謀殺した兵庫は道灌に替わって河越城に入り、江戸城には兵庫の父の豊後守(ぶんごのかみ)が入ったといいます。

そして、道灌の子の資康(すけやす)は定正に追われ、太田家は一時没落することになりました。
 一説によると、この道灌謀殺は兵庫などを中心とした新参の家臣たちの讒言によるものが大きかったと言われています。その結果、兵庫をはじめとした曽我氏は城を持つことになったという点では、謀殺ではあるものの家政主導権の勢力争いは、曽我氏らの新参勢力の勝利であると言えます。

 しかし、この後、道灌の予言通りに事が進んでいきました。
 扇谷上杉氏は主君筋の山内上杉氏との対立を深め、合戦を繰り広げて互いに疲弊していきました。
 そこに小田原城を本拠とする北条家が侵攻を始め、扇谷上杉氏の当主の朝定(ともさだ)は「河越の戦い」(1546年)で北条軍の奇襲に遭って討死を遂げ、扇谷上杉氏は滅亡しました。
 そして、山内上杉氏も「河越の戦い」で勢力を急速に失い、北条家によって関東を追われ、越後へと落ちていきました。
 こうして道灌の予言通り、関東管領・上杉氏は滅亡していったのです。

 兵庫が道灌を謀殺したと言われる糟屋館は、現在の産業能率大学の一帯だと言われています。目立った遺構はありませんが、館跡からほど近い「洞昌院(とうしょういん)」は道灌を荼毘に伏した寺院だと言われ、道灌の霊廟と墓が建立され、道灌に関する次のような言い伝えが残されています。
 兵庫に斬り付けられた道灌が命からがら寺院の門前までたどり着いたのですが、門が閉まっていたため中に入れず道灌は息絶えてしまったといいます。
 そのため、洞昌院ではそれ以降、山門に扉は付けないようになったと言われています。

 その洞昌院に館跡から向かう途中には「七人塚」と呼ばれる墓石があります。
 これは道灌が襲われた際に共に戦った道灌の家臣たちの墓と伝わっています。明治時代にこの辺り一帯を開墾した時に移されたようで、現在は1基だけ残されています。

 また、道灌の墓は伊勢原市内にもう1つあります。
 それは「大慈寺(だいじじ)」という道灌が再興した寺院で、道灌自身の菩提寺になっています。そこにある墓は「道灌の首塚」と呼ばれ、謀殺された道灌の首が埋められたと伝わっています。
 大慈寺の近くには「丸山城」という室町時代から戦国時代にかけて築かれた城郭がありますが、最近ではこの丸山城が、道灌が謀殺された「糟屋館」ではないかと言われています。

 道灌を討ち取った兵庫は、河越城に入った以降の経歴は、ほとんど分かっていません。
 しかし、道灌謀殺後も扇谷上杉氏の重臣に曽我氏の名が見られることから、重臣として仕え続けたようですが、主君の没落と共に、歴史から姿を消していったようです。

編集部おすすめ