雌雄を決する陸戦の火蓋が切られる
【前回はこちら:九連城の戦いで、日本軍が無血入城できたのはなぜか?】
第1軍による平壌陥落、連合艦隊による黄海海戦の勝利を受け、大本営は明治27年(1894)9月25日、大山巌大将を司令官とする第2軍を編制した。
第2軍は遼東半島先端部の大連(正式な命名は日露戦争後)、旅順の攻略を任務とした。9月中に第12旅団は門司港を発ち、10月15日、主力部隊を乗せた輸送船団が宇品港を進発した。第1軍が鴨緑江を渡河した24日、南岸の花園口に敵前上陸を敢行。清国軍の攻撃はなく、兵器や糧秣、軍馬などを陸揚げした。
大連の手前に錦州城(現・大連市錦州)がある。当時はほかの町と同様に城壁に囲まれた城塞都市になっていた。
11月3日、第1師団は錦州へ向けて進軍を開始。前衛司令官は歩兵第1旅団(歩兵第1連隊と歩兵第15連隊)を率いる乃木希典少将である。
乃木は西南戦争で軍旗を喪失し、このことで長く苦しんできた。のちに英雄視される乃木だが、このときは死に場所を求めるように先陣を願い、わざわざ危険を伴う敵情視察を率先して行った。
5日、乃木旅団は清国軍の砲撃を受けると、野戦砲兵(野砲兵)第1連隊に砲撃を命じた。