イラスト/フォトライブラリー『江戸の性事情』(ベスト新書)が好評を博す、永井義男氏による寄稿。

 連載第43回の「江戸の盛り場で行われていた性の見世物が凄い」で、両国の見世物小屋でわいせつな興行がおこなわれていたことを記したが、『芸界きくまゝの記』には「いかゞはしき芸道」として、わいせつな興行が紹介されている。

 江戸初期の寛永四年(1627)、念仏講、あるいは念仏踊りとも称する宗教活動が盛んになった。鎌倉河岸の空き地に筵(むしろ)張りの小屋を建て、そこに多くの男女が集まって念仏を唱え、踊るのだが、いつのまにかみだらな行為をしていることがわかり、禁止された。おそらく、いまでいうところの乱交パーティーをしていたのであろう。

 宝永三年(1706)、伊勢神宮の参道わきの草むらで性行為をしていた若い男女が、挿入した陰茎が女の陰部から抜けなくなってしまった。いわゆる膣痙攣であろう。これを見つけた男たちがふたりをそのままのかっこうで運び、小屋掛けの見世物に出した。
 評判を呼んで、立錐の余地もないほどの大入り満員となった。女は備後福山の裕福な家の娘で、十六歳くらい。男は二十五歳だったという。

 

 明和年間(1764~73)には女相撲の興行が盛んにおこなわれたが、男と女に相撲を取らせるなど、しだいにわいせつの度合いがひどくなったことから、ついに禁止された。

 幕末の慶応四年(1868)、浅草蔵前に生人形(いきにんぎょう)の見世物が出た。生人形とは、本物そっくりに作った人形のことで、現在の蝋人形に似ている。


 小屋には多数の生人形が陳列されていたが、そのなかに入浴している裸体の美人があった。美人は真っ裸で風呂の入口に腰をかけ、わずかに手ぬぐい一枚で局部を隠していた。手ぬぐいの下を見たいものは別途に一文を払ってとどまり、見たくないものは去る。一文を払った客には、係の男が手ぬぐいを取り去って、本物そっくりに作られた女の陰部を見せてやった。

 明治維新後、本郷の写真師は若い美人の女を雇い、客の求めに応じて女の局部を撮影してやった。二十五銭の太政官札一枚を払えば、客の望みどおりのポーズを女にさせ、陰部を撮影したという。

 なお、『芸界きくまゝの記』の作者は、「マダ此の外にも醜き話あれど、あまりのことゆゑ略す」と書いている。
 願わくは、もっともっと詳細に書き遺してほしかった……。ともあれ、いつの世も、わいせつな物を見たいという男の情熱は同じである。

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