大学入試センター試験廃止と新テスト導入に代表される、文科省の教育改革が本格的に動き始めています。学習の内容や方法の改変はもちろんのこと、「学校」という組織の在り方についても今一度見直す必要があると、『2020年からの教師問題』(ベスト新書)の著者・石川一郎先生は言います。
そこで今回は、学校における「クラス」という枠組みについてどう考えるべきか、石川先生にお話を聞きました。
◆クラス経営とは、多様性を無視すること

 学校における「クラス」の存在価値について、私は日ごろから疑問を持っています。クラスの中では、生徒ひとり一人の考え方や善意より、集団の利益の方が優先されるケースが多いからです。もちろん、集団としてまとまることにメリットはあると思いますが、結束を強くしすぎると何が起こるかということを、現役の先生方は一度考えた方がいいと思うのです。

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写真:photolibrary

 クラスがクラスとしてのまとまりを求めたとき、そこに必要となるのはおそらく共通の目標やルールです。体育祭のような行事を思い出していただけると、分かりやすいかもしれません。「優勝する」などの目標や「毎日クラスで朝練をする」といったルールを作り、達成に向けた働きを生徒ひとり一人にある程度強要しなければならないとなると、少数意見がかき消されて多様性が担保されない集団となるのです。具体的な例を挙げるのならば、40人中の一人か二人が「体育祭の朝練を毎日やる必要はないんじゃないか」と思っていて、その意見の方が妥当だったとしても、クラスでは聞き入れる余地がなくなりがち、ということです。
 行事のときでなくても、似たような感覚を覚える生徒は多いのではないでしょうか。「クラスの雰囲気を壊しちゃいけない」「こんなことを言ったら、仲間はずれにされる」というように。

 先生が熱心にクラスを扇動したり、スローガンなんて掲げてしまうと、余計に具合が悪い。そういう先生はその熱心さからたいてい「良い先生」と言われることが多いようですが、クラスの一体感を重視するあまり、集団意志に順応できずに苦しむ生徒を生み出す可能性が大いにあります。

 さて、今文科省が進めている教育改革には、「他者との協働」を重視する考え方が盛り込まれています。学校における「協働」とはすなわち、異なる意見を持つ生徒同士がコラボレーションし、より良い結論を導き出そうとすること。集団が一体化されていないことが前提であり、その状態からどれだけ良い方向へとすり合わせが行えるかが問われるようになるのが、これからの教育です。
 だから、もともと違う考え方や見方があって当然のクラスで、共通目標、共通ルールを持とうという方が無理な話だと思うのです。クラスのまとまりなんかより、生徒ひとり一人が違う意見を持っていることを許容し合える環境を作り上げることの方が、先生の役割としてはよっぽど重要なのではないでしょうか。

 それでも多くの先生が「クラス」という集団のまとまり具合を気にしてしまうのは、実は非常に日本人的なものの考え方なのです。江戸時代に「村八分」という制度があって、村の掟に背いた者を仲間外れにするというシステムがありましたが、まさにあれです。団結力は高まりますが、集団からはみ出すものがいればことごとく攻撃の対象になる……これはひょっとすると、いじめ問題につながる構図かもしれません。

◆改めて考える、「良いクラス」とは何か

「良いクラス」というと、先生側から見ればそれは、団結力のあるクラス、まとまりのあるクラスということになるのかもしれません。しかし、そういうクラスほど多数派を中心に集団の意志が決定されていて、少数派が息苦しかったりするものです。ある意味とても民主主義的なのですが、やはり少数の意見が大事にされないというのは良くないと思うのです。
 本当に良いクラスというのは、多数派だろうが少数派だろうが関係なく、互いの意見に対し共感し、多様性を認められるクラスではないでしょうか。

そうすれば「個」が尊重された上で、違う価値観を持つ「個」とコラボレーションする喜びを味わえる。協働をするための環境ができていて、自我を無理やり隠す必要がなくなるのが、理想形だと私は考えます。

 

 先生は、過剰に他者に対して迷惑をかける生徒の行為を取り締まりつつ、クラスの生徒全員が安心して自我を出せるような環境を作り出す。それこそが求められている役目であって、決してスローガンを掲げるのが先生の役目じゃないと思うのです。
「クラス経営」「学級経営」などという言葉がありますが、そもそもこの考え方が間違いなのです。学級経営とはスローガンをかかげて、そのスローガンに沿った集団に画一化していくこと。たとえば合唱コンクールのような行事があったときに、練習を通してみんながだんだんとクラスの仲間を思いやるようになって、トゲがなくなってまとまって一つの方向に進んでいく……そのようにナビゲートすることこそ学級経営だと言う人がいるのですが、そんな誘導はいりません。あくまで生徒ひとり一人が主体的になるべきなのです。

 結局、教師たちが学級経営を通じて生徒に何をさせようとしているのかといえば、「嫌なことでも我慢しろ」ということ。集団にあわせて自我を抑えろと教えているのです。まるで努力と我慢の宗教ではないですか。
 集団における努力や我慢というのは、世の中に出てから学んだって決して遅くないと私は考えます。

ましてや学校のクラスのように偶然にでき上がってしまった集団においては、必要以上のまとまりはいらないと思います。
 集団でまとまることは世の中を生きていく上で大事だと、学校でそれを学ぶべきだと言う人もいますが、その過程で失われる個人の意見はどうなるんでしょうか? 学校教育で他者との協働が求められるようになったのは、他者と協働できる人材を求める社会全体の声に応じたからと言って良いのです。それにもかかわらず、生徒に対して「クラス」という集団の中で画一化されるよう促すとは、馬鹿馬鹿しい話だと思いませんか。

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