実に東京都人口の3分の1、420万人が住む多摩地域。370万人の静岡県(日本第10位)よりも多い多摩は歴史の宝庫であった。
江戸文化を中心に多方面に造詣の深い著者・中江克己が多摩の歴史や地名の由来を紹介する。 「連雀」とは何か

 多摩地区は広い。そのせいか、珍しい地名や歴史を物語るものもある。たとえば、三鷹市にある「下連雀」という地名だ。

 連雀は「れんじゃく」と読むが、連雀とは何か。連雀という冬鳥がいるが、それとはかかわりがなく、「連尺」のことである。連尺は二枚の板を縄で組み、物を背負いやすくした用具で、行商人は商品をこれで背負い、売り歩いた。

 こうした行商人が神田の一角に多く住み、連尺町ができた。のちに連雀町(千代田区神田須田町1)に改められたが、明暦3年(1657)の大火で町が焼けたため、万治2年(1659)、家を失った住民たちが三鷹へ移住、連雀新田を開いた。現在の下連雀は、これに由来する。

三鷹の「連雀」という地名は神田の行商人にルーツがあったの画像はこちら >>
(C)国土地理院/地理院タイル/標準地図

 それの西隣に「上連雀」があるが、これは下連雀と直接のかかわりはない。近くの農民たちが新田を開発、連雀につづく土地だったので「連雀前新田」と称し、享保年間(1716~35)に上連雀村と改称された。

 地名の変わりダネといえば、東大和市を東西にのびている青梅街道に面する「蔵敷」という町もその一つ。その北側には東京都民の水がめ、多摩湖(村山貯水池) が広がっている。

三鷹の「連雀」という地名は神田の行商人にルーツがあった
多摩湖(村上貯水地) (C) DS80s

 蔵敷は、もともと「雑色」で「雑多な色」のこと。平安時代、貴族の身分の低い使用人が服の色が定まらず、ありあわせの雑多な色の服を着ていたため、下級役人などを雑色と称した。

 江戸時代、その当て字として蔵敷村があった。50戸ほどの小さな村だったが、慶長8年(1603)に設けられた「蔵敷高札場」(東大和市蔵敷一)が現存し、都旧跡に指定されている。高札は、幕府が住民に知らせるために法度や掟、犯罪人の罪状を記した板札だ。

「芋窪」とは何か

 蔵敷の西隣は「芋窪」という町だが、この地名も珍しい。「いもくぼ」と読むことができても「何を意味するのか、よくわからない」と思う人が多いのではないだろうか。

 蔵敷高札場跡から青梅街道を西へ進むと、貯水池下というバス停があり、その北方に歴史を感じさせる豊鹿島神社(東大和市芋窪1)がある。本殿は都有形文化財。近年の調査では「文政元年(1466)」の棟札が発見され、東京都内に現存する最古の神社建築であることが明らかにされた。

 地名の芋窪は、珍しい木製狛犬の裏書にある「井能窪」に由来する。「井のある窪地」という意味らしい。古くから「井の窪」とか「井野窪」と記されてきたが、この「イノ」が転化して「イモ」となり、芋窪の字を当てるようになった、と考えられている。

三鷹の「連雀」という地名は神田の行商人にルーツがあった
(C)国土地理院/地理院タイル/標準地図

 蔵敷の東隣は「奈良橋」という。1丁目から6丁目まで、南北に連なる。奈良といえば、大和の奈良を思い浮かべる人が多いだろう。しかし、奈良橋の奈良はそれと無関係だ。

 奈良橋は狭山丘陵の南麓に位置するが、先に紹介した蔵敷、芋窪などと同じように古い村だった。この「奈良」は平らな場所とか、緩やかな傾斜地を呼ぶことばとされる。緩やかな傾斜地の畑を「ならいの畑」というところもある。

 奈良橋の「橋」は、そのような土地の端だったのが、いつのまにか「橋」の字を当てるようになったのではないか、という。もともと東大和市の奈良橋は、八幡神社(奈良橋1)から南へつづく緩やかな傾斜地にできた集落だった。

 東大和市の南端、立川市に接して「南街」という町がある。「南街」とは風変わりな町名である。昭和13年(1938)、畑だったところに軍需工場が出現。社宅もつくられ、多くの従業員が住むようになり、病院や郵便局、幼稚園まで整備された。

 北部の農村地帯とはまるで異なる地域だった。人びとは「南の工場街」といったが、やがて「南街」という通称が生まれた。戦後は、ほとんどが米軍大和基地になったが、返還されたあと、社宅区域は昭和55年(1980)、通称の「南街」が正式に行政地名となった。

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