イラスト/フォトライブラリー『江戸の性事情』(ベスト新書)が好評を博す、永井義男氏による寄稿。

 癪(しゃく)は、胸部や腹部におこる激痛の通俗的総称で、女に多い。

「さしこみ」ともいう。
 医学の水準が低かった江戸時代、癪に対する有効な治療法や薬はなかった。
『怪談老の杖』に、つぎのような話がある。

 元文(1736~41)のころ、中橋に上州屋という質・両替屋があった。上州屋の主人の作右衛門にはお吉という娘がいて、なかなかの美人だったが強い癪があり、しばしば苦悶のあまり卒倒してしまうほどである。
 たまたま高崎(群馬県高崎市)に住む伯父が商用で江戸に出てきて、上州屋に立ち寄った。
「そろそろ年ごろなのに、このままでは嫁入りもかないますまい。温泉で湯治をさせればよくなるかもしれませぬ」
 作右衛門は伯父に頼み、娘を伊香保温泉で湯治させることにした。伯父はこころよく引き受け、お吉と付き添いの下女ひとりをともない、いったん高崎に帰った。宿泊用の寝具や着替えの衣類、食料などを用意し、馬を一頭雇って荷物を積み、三人はあらためて伊香保に向かった。

 伊香保温泉で宿をきめ、湯治を始めるとお吉の体調はよくなった。
 同じ宿に、越谷(埼玉県越谷市)あたりの藤七という男がひとりで湯治に来ていた。

藤七はお吉に目を付けたが、伯父と下女がいるため手を出すことはできない。そこで、如才なく伯父に取り入り、すっかり親しくなったが、江戸育ちのお吉は藤七を田舎者と馬鹿にし、歯牙にもかけていなかった。
 湯治を始めてからは癪もおきないため、伯父は安心して、「店が気になるのでいったん帰るが、二、三日すれば戻ってくる」と、高崎に戻ることになった。その際、すっかり藤七を信用していたため、「くれぐれも姪をよろしく」と、お吉のことを頼んだ。

 こうして、藤七に待ちに待った機会が訪れたが、いつも下女がそばにいるため、なかなかふたりきりはなれない。たまたま下女が用事で出かけたときをみはからい、藤七はお吉を口説いた。ところが、お吉はまったく相手にしない。なおも強引にせまったところ、お吉は癪をおこして昏倒してしまった。
「大変だ、お吉さんが癪をおこした」
 これを聞きつけて、下女や宿の主人などが駆けつける騒ぎとなった。その後は、藤七は看病にかこつけ、寝床に伏したお吉のそばを離れない。薬も口移しにして呑ませ、体を抱きしめてやるほどだった。
 お吉はいったん正気を取り戻したが、自分が藤七に抱かれているのを知るや、またもや激しい癪の発作をおこし、ついには息絶えてしまった。

お吉の突然死に、宿もあわてた。遺体を一室に安置して、周囲を屏風でかこった。いっぽうで、使いを立てて高崎に知らせた。

 

 知らせを聞いて、伯父が伊香保に駆けつけた。
「ご遺体はこちらに安置してございます」
 宿の主人の案内で部屋に向かった。屏風をあけた途端、伯父も主人も、「あっ」と叫んだ。なんと、藤七が布団にもぐりこみ、裸にしたお吉の体をひしと抱きしめていたのだ。
 変な噂が広まっては困ることから、伯父と主人はことをおおやけにはせず、「とっとと出て行ってくれ」と、藤七を宿から追い出した。その後、お吉の遺体は伯父が引き取り、高崎の寺に葬った。

 しばらくして、子供たちが伊香保の裏山でさまよう藤七を発見し、親に告げた。人々があらためて山のなかをさがしたところ、正気を失っている藤七を見つけた。
 髪は乱れ、帯はとれて着物ははだけ、ふんどしもはずしているため下半身はむき出しだった。

しかも、下半身のあちこちに傷があり、血がにじんでいた。そんなかっこうのまま、朽ちた倒木の上にかぶさっては、まるで性行為をするかのように腰を動かし続けていた。その醜行に、人々は思わず目をそむけた。
 とても連れ帰る気にはならないため、藤七をそのまま放置し、人々は山をおりた。

『怪談老の杖』にははっきりと書いてはいないが、おそらく藤七はお吉に執着するあまり、死体と屍姦(しかん)をしていたのであろう。屍姦の現場を押さえられ、追放されるにおよび、ついに精神に異常をきたしたのだと思われる。

 なお、ごく少数派とはいえ、いつの世にも屍姦に興味のある男はいるであろう。ただし、現代では遺体は火葬されるため、実行は困難である。その点、江戸時代は土葬が一般的だった。
 春画にも屍姦を描いたものはある。歌川豊国の『逢夜鴈之声』(文政五年)で、早桶(棺桶)から引き出した女の遺体に男がいどんでいるという、なんとも醜悪な光景である。ここでお見せできないのが残念であるが……。

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