「おかしな猫がご案内 ニャンと室町時代に行ってみた」より。室町時代の人々の暮らしにまつわるエトセトラ。
日本に千年以上続く文化、苗字の話。室町時代、庶民の台頭は支配力の弱さのおかげ?
南北朝時代から続く庶民の苗字があった! 日本最古の庶民の苗字...の画像はこちら >>

 室町幕府という名称は、全盛期を築いた3代将軍・足利義満の邸宅「室町殿」に由来します。この時代を室町時代と呼ぶのもそのためで、初代・足利尊氏が幕府を創立した延元3年(1336年)から、織田信長により15代・足利義昭が京都から追放された元亀4(1573)年までが該当します。
 ただし、年代には必ずしも厳密な決まりはなく、南朝政権が存在した前半60年を「南北朝時代」、15世紀末の応仁の乱の後、幕府の権威が失墜し郡雄割拠して以後を「戦国時代」と呼び、その間の100年だけを室町時代と呼ぶことのほうが一般的になっています。

 この時代はドラマやマンガの主人公にふさわしい英雄的な人物が少なく、政治史的にも分かりにくい地味な時代というイメージがあります。確かに、表面的な華々しさはありませんが、その一方、この時代は庶民の力が高まり、能、狂言、花、茶など今日まで生き続ける日本的な文化が生まれました。農村で人々の定住が進み、現代に続く集落や村落共同体が形成されたのもこの時代です。現代の人々の暮らしや日本の原風景が生まれた画期的な時代といっていいかもしれません。

 民衆が台頭した理由として、室町幕府の支配力の弱さが指摘されています。鎌倉時代は朝廷も幕府もそれなりに力を持っていて、所領争いを裁判で解決する道もありました。また、江戸時代は強固な幕藩体制の下、武家・公家・僧侶から一般民衆の生活に至るまでたくさんの決まりごとがありました。これに比べて室町時代は、幕府や守護の力が庶民にまで及ばず、村落の用水・山野の利用、市場における商取引など、村落の掟や慣習、実力行使などが、民衆自身の手で解決されることが多くなりました。

公権力の衰退が民衆の自治意識を呼び起こしたのです。

 室町時代には人々はどのような生活を営んでいたのか、具体的なお話は次章から始まる猫田さんの解説にゆだねるとして、このコラムでは、室町時代を生きた人々を身近に感じるために、人間のもっともパーソナルな情報である〝名前″に着目してみたいと思います。

姓と苗字は読み方が違う!

 中世人の名前についてみるためには、まず姓と苗字の違いについて知っておかなければなりません。姓とは源氏・平氏・藤原氏など天皇が上から与えた公的な名前です。血のつながりが重視され、父方に血縁関係をたどる氏人はすべて同じ姓になります。
 一方、苗字は私的につけた家の名で、必ずしも血縁関係は必要なく、地域的・社会的なつながりが重視されます。足利・武田・佐竹などの苗字の多くは、武士の本領の地(足利荘・武田郷・佐竹郷)にちなんで、その支配の正統性を主張するために自ら名乗ったものです。ただし苗字を持つ人々も、たとえば足利・武田は源氏、北条は平氏の姓をもっており、公的な場では源朝臣義満(足利義満)、平朝臣義時(北条義時)などと称しました。

 読み方にも違いがあり、姓の場合は藤原(ふじわらの)道長(みちなが)、平清盛(たいらのきよもり)のように姓と実名の間に〝の″をつけて呼びますが、苗字は北条(ほうじょう)義(よし)時(とき)、足利(あしかが)尊氏(たかうじ)のように続けて呼びます。豊臣秀吉は〝とよとみひでよし″と呼ばれることが多いですが、豊臣は後陽成天皇に賜ったれっきとした姓なので、正確には〝とよとみのひでよし″と呼びます。
 では、室町時代の民衆はどのような苗字をもっていたのでしょうか。

一生「童名」の人もいた?

 京都の市街地の北に隣接する山城国山国荘という荘園では、水口・鳥居・藤野・新井・江口など、現代まで伝えられている苗字が史料に残されています。

また、山国荘では苗字ばかりか、姓までも持っていたことが明らかにされています。

 南北朝時代初頭の建武4年(1337年)、山国荘の住民が田畑を売却した際の証明書に売主と保証人の名前が連署されています。ここには売主の藤井為国以下、今安・高室・田尻・三和という名が見えますが、このうち藤井と三和が姓で、特に三和(三輪)は古代以来の伝統的な姓として知られています。

 個人の名である〝下の名前″の付け方も現代とは異なります。中世男性の多くは複数の名を持ち、成長とともに変えていくのが一般的でした。諱といわれる実名のほか、幼少時代の「童名」、藤四郎・平三など通称である「字」、出家後に名乗る「法名」などがあり、人生のステージに応じて名乗りを変えていきました。中には、犬次郎・鬼次郎など成人後も童名で呼ばれる人がいましたが、これらは社会的に一人前扱いされない最下層の人々だったと考えられています。また、室町時代の女性は、武士も庶民も多くが成人後も改名できず、犬女や観音女、チイ女などの童名を使い続ける場合が多かったようです。下層民男性や子どもと同様、半人前の存在とみなされていたことを表しているといわれています。

継承されゆく苗字

 江戸時代になると「苗字・帯刀」は武家の特権となり、幕府や大名に貢献して特別に許可された人以外、一般庶民が公的な場や武士の前で苗字を使うことは禁止されます。そのため、庶民は苗字を持っていなかったと誤解されがちですが、実際は村々でも家の名である苗字を持ち、村の中で堂々と名乗り合うことも少なくありませんでした。田畑を持てない水呑百姓の中にも、苗字を持っていた人がいたことが確認されています。

先にみたとおり、中世の村落では苗字や姓をもっている人が多く、生活の場では引き続きそれが使用されたのです。

 この状況が大きく変わるのは、明治初頭に戸籍法が制定されてからです。「今からは必ず苗字を名乗ること。祖先の苗字がわからない者は新たに苗字を設けよ」という新政府の布達を受け、初めて庶民も公に苗字を名乗ることが許されました。

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