文学者として、色々な文学・小説を読んできましたが、それを読み込む上で出てきた疑問・命題に、トッドの理論が答えのヒントをくれたからです。
例えばイングランドの劇作家、シェイクスピアの『リア王』。あれは王様が自分の3人の娘たちに「誰が一番私を愛しいるか?」と問うて「私のことを一番愛している娘に全ての遺産をあげよう」という話で、遺産相続の一つのメタファーですね。
それとよく似た話が、フランスのバルザックが書いた『ゴリオ爺さん』に出てきます。ゴリオは二人の娘に全財産を渡して最後すっからかんで死んでしまうのだけど、相続する相手は娘二人に対して平等に行われる。一人ではなく、全員に平等。
エミール・ゾラの『大地』もパリに近い農村で農地を遺産相続する話で、平等分割。ところが同じフランスでも南西部のボルドーを舞台にしたフランソワ・モーリアックの小説になると、日本と同じように長男一人が相続するスタイルなんですね。
私は当初、こうした文学作品にあらわれる遺産相続のスタイルの違いをリア王、ゴリオ爺さんといった“個人”の問題だと考えていました。しかし、事例を集めていくにつれて、「これはある“集団”の無意識があらわれているのでは?」という疑問を持つようになったんです。
それがトッドを読むと、そもそも家族類型は日本とヨーロッパでは違うし、ヨーロッパの中でもフランスとイギリスとドイツはそれぞれ全然違うし、ロシアも全く違う、とある。イングランド「絶対核家族」型、フランス(パリ盆地)「平等主義核家族」型、ドイツ「直系家族」型、ロシア「外婚制共同体家族」型という大まかに4つに分類することが可能であると分析している。そしてその型ごとに遺産の相続の仕方も規定している。そうすると、今までの疑問が腑に落ちることがたくさんあるわけです。
先にあげたイングランド、フランス文学以外でも、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』やショーロホフの『静かなドン』のようなロシア文学にしても、トッドの分類がドンピシャで当たってるんですよ。
日本文学もそうです。いくら小説は自由に書いていいと言っても、典型的な「直系家族」の日本※を舞台にして長男ではなく次男や三男が継いだとか、兄弟姉妹全員で平等分割したという前提で物語を書いていくことはできないわけです。想像力を働かせる以前に直系家族が一つの規範になっているわけですから。
(※編集部注 日本はドイツと同じ「直系家族型」に分類される。直系家族では普通財産は長男にのみ与えられる)

要するに、トッドの分類は社会と小説、社会科学と小説・文学を結ぶ非常に便利な分析ツールになると考えて、真剣に読み込むようになったわけです。