イラスト/フォトライブラリー『江戸の性事情』(ベスト新書)が好評を博す、永井義男氏による寄稿。

 畜生道(ちくしょうどう)という言葉がある。

人倫上、許し難い性的関係のことで、近親相姦などをさす。 

 宝永元年(1704)二月十九日、初代の市川団十郎が市村座の舞台で、役者の杉山半六に刃物で刺殺されるという衝撃的な事件がおきた。
 町奉行所に召し捕られた半六は、「恨みがございました」と答えるだけで、あとはいっさい言わない。
 奉行所は歌舞伎の関係者にも尋問したが、みな、「さあ、心当たりはございません」と、途方に暮れている。
 けっきょく、恨みの内容は不明なまま、杉山半六は処刑された。
 
 おおやけには初代団十郎殺害の動機は不明だったが、実際は歌舞伎関係者のあいだでは、背景に性的な醜聞があったのは周知の事実だった。歌舞伎界の恥であるため、みな口をつぐみ、もみ消したのである。
『江戸著聞集』(宝暦七年)によると、性的醜聞とは以下の通りである。

 杉山半六はもともと身持ちが悪く、同居する伯母とも関係していた。たまたまこのことを耳にした市川団十郎が心配し、ひそかに半六を呼び寄せ、こんこんと意見した。
「世間に広まる前に、きっぱりと縁を切りなさい」
「身に染みてわかりました」
「一緒に住んでいるから、こういうことになる。ともかく、住まいを分けることじゃ」
 団十郎は自宅に伯母を引き取った。

 こうして、いったんはふたりの仲を裂いたが、やはり忘れられないのか、その後も、人目を忍んで会っていることがわかった。
 ここにいたり、団十郎は女に多額の持参金を付けて、三味線弾きの権次郎という男の嫁にやった。持参付きということもあり、権次郎は大喜びだった。権次郎とのあいだに、女の子と男の子もできた。

 火事がおこり、境町も類焼して芝居小屋のほとんどは焼失した。権次郎一家も焼け出されたが、たまたま和泉町に住む杉山半六の家は無事だったため、避難先として一家を受け入れた。
 こうして、同じ屋根の下に住むことになったため、半六と伯母(権次郎の女房)はまたもや密通が再開する。ついには権次郎の方が逃げ出してしまい、半六と伯母、それに子供ふたりで生活を始めた。この噂を聞き、市川団十郎は憤懣に堪えなかった。

 団十郎は子供好きで、楽屋にはいるときは着物の袖に多数の菓子を用意しておき、子供たちにあたえるのを楽しみにしていた。そのため、芝居小屋の周辺には多数の子供があつまり、団十郎の到着を待ち受けているほどだった。
 その日も、団十郎が楽屋入りしようとすると、多くの子供が集まってきた。

そのなかに、権次郎の息子を見かけた。団十郎はほかの子供には菓子をあたえたが、その子にだけはあたえない。権次郎の子供がせがんだ。
「おいらにもおくれ」
「てめえは、親父にもらいな」

 子供は半六のもとに行き、自分だけ菓子をもらえなかったことと、団十郎の言葉を伝えた。これを聞き、半六はカッとなり、ついには団十郎を刺し殺してしまった。

 ひとりの子供にだけ菓子をあたえなかった団十郎の行為は、あまりに大人気ないともいえる。しかし、半六には何度も裏切られている。団十郎は腹に据えかねるものがあったのであろう。
 やはり人間である。団十郎が感情を抑えきれず、子供に怒りの矛先を向けてしまったのも無理はあるまい。一番悪いのは杉山半六なのだから。

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